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| 大丈夫! | |||||
この35年間、エッセイストとして15冊の著書はじめ、講演・セミナーなどを通して笑顔人生の素晴らしさを語りかけてきました。笑顔がひとつ増え、「ありがとうの心」がひとつ増えれば世界は着実に平和に向け一歩前進すると信じているからです。 私の人生にもいろいろな関門がありました。そのたびごとに「試練でなく登竜門」と受け止め、いつも笑顔でありたいと意識し、実践し続け、笑顔によってどんどん変わっていく自分を知り、周りも明るく変わり、ものごとが好転していくことを身を持って知ってきました。笑顔の習慣が試練を乗り越えさせてくれたのです。 みんなが不安がっています。いまのこと、これからのこと。自分のこと、家族のこと、会社のこと、国のこと、環境のこと、地球のこと…。どうしてこんなに不安なのでしょう。もちろん、一つひとつ理由があってのこと。不安の芽を一つひとつ刈り取るために、人は、国家は、地球は英知を傾けています。でも、刈り取っても、刈り取っても不安の芽はいっこうに減りません。なぜでしょう。 不安の芽は心に根を張っているからなのです。○○がないから、不安。この○○には、お金、家族、恋人、安全、健康…、いろいろあります。では、これらの不安の理由がなくなれば、不安はなくなるのでしょうか。例えば、「お金があるから、安心」「恋人がいるから、安心」と言えるでしょうか?「お金」はあるけど、もっとないと、…不安。「家族」はいるけど、それぞれの将来がどうなるか…不安。――「健康」だけれど、いつけがや病気に見舞われるか、…不安。結局、私たちは、○○がないから、不安。○○があっても、不安。なのです。不安の中から幸せは訪れません。 原因や理由があって、結果として不安になる、と思いがちですが、そうなのでしょうか。ほんとうは、私たちの心に根を張っている不安の芽が、「不安の原因」や「不安の理由」をわざわざつくりだしているのではないでしょうか。私たちの内側で起きたことが、結果として周囲に現われ出ているとは考えられないでしょうか。自分が「不安の原因」や「不安の理由」を引き寄せているなら、そろそろこの辺で不安の連鎖を止めたいものです。 その突破口はおまじないの言葉「大丈夫!」どんな状況に置かれても、この言葉によって私たちは立ち上がることができるのです。自分ではどうにもならなくなると、人はよく「困ったときの神頼み」をします。そして、それでもよくならなければ「神も仏もあるものか」などと勝手なことを言いますが、そのときにお出ましになるのが「神」。その「神」こそ、自分の中の神通力なのです。「大丈夫」は、その神通力を呼び起こすおまじないの言葉!今年は大丈夫を口ぐせに笑顔で過ごしてみませんか? |
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*笑顔共和国大統領の純子さんと初めてお目にかかったのは20年前。大和信春先生の第一回熟考塾でした。その折、みんなで「わたしはシ・ア・ワ・セ」の練習をして笑い転げたことが忘れられません。「IQより愛嬌」、「笑顔は環境適応力」等々多彩な笑顔語録を生みだされ、笑顔の種まき運動を展開されています。 |
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| カンボジアの子らに笑顔を運びつづけたい | |||||
| 999年5月に初めてカンボジアの地を訪れ、早10年。“あっという間”の、そして、“まさかこんなに長くいるとは”の10年でした。 当時、私の恩師が、カンボジアのアンコールワットのある街、シェムリアップに新設されたアンコール小児病院で看護部長を務めていました。そして、「カンボジア人に看護教育をするボランティアをしてみない?」と誘われ、2か月の予定で行ったのが最初。2か月は、ちょっと長すぎるかもしれないなぁ・・と思いながら行ったカンボジアでの経験は、私を人生の岐路へと導いたようです。 「なぜ、カンボジアに10年も?」ということを多くの方に聞かれますが、実は、最初の1週間は、早く帰りたくてどうしようもありませんでした。蟻がたかる点滴に見向きもしない環境の違いに、何を教えたらいいのやらと悩み、後悔ばかりでした。それが、 少しずつですが、“目から鱗”の毎日を楽しんで過ごせるようになっていました。ずーっと忘れていた“五感”が呼び醒まされたのです。汚いものは隠し、臭いものには蓋をして、きれいで早くて便利が一番と思い込んでいたそれまでの自分に気付かされ、何事も簡単にボタン一つで終わってしまうのではなく、時間を費やすことの大切さ、またその楽しみを発見したのです。 肌に突き刺さるようなスコールに打たれ、ドロドロの田んぼにはまり、ごみの山からの強烈な異臭を嗅ぎ、何をするにも大変なこの場所で「もう、いやだ~!」と叫びながらも、心の底では、ちょっとワクワクする“不便の心地よさ”を教わり、そんな生活からたくさんの生きるエネルギーを浴びてきました。 カンボジア人スタッフへの看護教育は、まさにチャレンジの連続でした。私の当然が彼らの当然ではないからです。そこで、思考の変換!押し付けは、無意味。当然を振り払い、新しい方法を考えること。時間はかかりましたが、少しずつ先が見えてきた時には、思わずガッツポーズが出るほどの達成感です。この仕事していてよかった~と思う瞬間ですね。人生の中で後悔することは度々ですが、仕事に関しては後悔をしたことがありません。とにかく、楽しくなければ仕事じゃない。父の闘病を経験し、体育教師になる予定が、一番なりたくなかった看護師になり、こんなに満足させてもらえるなんて、全く想定外でした。 この10年、カンボジアは、急速な経済成長を遂げました。しかし、その陰では、苦しむ子供を目の前に病院への交通費が無く、亡くなってしまった患者さんや、食べ物がなく、道端で死んでいた犬を拾って来て食べている家族が存在しています。こういう患者さんの顔に笑顔をもたらすことは、これまたチャレンジ。まだまだやることがたくさんです。 日々接する子供達から、一杯エネルギーをもらい、私はこういう人たちに囲まれて生かされているんだなぁ・・と感じています。だから、私の力の源であるカンボジアの人達に何か恩返しをしなくちゃと思うのです。これからも、より多くの患者さんへ笑顔を運ばなければね。 |
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| *友人からのメールで知ったアンコール小児病院・赤尾さんの活動。過酷な状況下に生きる子どもたちへの想いの深さ、行動力のすごさと、大変と思ったことがないとの言葉に感動しました。 |
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| 「生まれ育ったまちでずっと暮らしていくために」 | |||||
実際には行きませんでしたが、25歳のときから「新婚旅行で行きたい!」と思っていた国があります。それは「インド」です。新卒で勤めた地方銀行を退職後、インドのNGOで3週間ほどインターンをしていたのですが、その現場がどうなっているかを自分の目で確かめてみたかったのです。 そのNGOは、国連が「最貧困」と定義する1日1ドル以下の所得の人たちが約80%暮らす村で、“水”に関するプロジェクトを実施していました。乱伐のため保水力を失った山に木を植えたり、雨水がふもとの村まで流れるように用水路を作ったり、なるべく水を使わずに育てられる食物の作り方を指導したり、生きていくために不可欠な水を政府(GO)ではなく、NGOが管理せざるをえない現実がそこにはありました。 帰国する当日、ぼくは小さな子どもを抱えた村のお母さんに呼び止められ、こう告げられました。「この子を日本へ一緒に連れて帰ってくれませんか? 日本は豊かだからきっと幸せになれるはず」。本気か冗談かわかりませんでしたが、彼女の真剣な表情だけはいまでもよく覚えています。 そして帰国後、最初に見たテレビから飛び込んできたのは、ネット上で出会った若者数名が自動車の排気ガスで集団自殺したというニュースでした。生まれ育ったまちで、ずっと暮らしていきたくても暮らしていけない子どもたちが世界にいる一方で、あまりにも安易に自らの命を絶つ若者がいる日本。この“いびつな構造”をなんとかしたい。これがコミュニティ・ユース・バンクmomoに取り組む原動力のひとつです。 「momo」という団体名の由来でもある童話『モモ』を書いた、ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデは、経済活動の前提条件である筈の自然資源を破壊してしまう経済システムの矛盾に目を向けて、「お金」を次のように捉えました。「重要なポイントは、パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つの異なる種類のお金であるという認識です」(NHK番組『エンデの遺言』より) 毎日、何かに追われるように忙しかったり、人間が本来持っていたはずの感受性や豊かさが知らず知らずのうちに奪われていたりする。そんな今の世の中の根本原因は、預金したお金がグローバルに流れ、目に見えなくなってしまっているような、お金の仕組みに端を発してはいないでしょうか。momoでは、地域のみなさんの「自分たちの地域は自分たちで担う」という当事者意識を育むために、地域の未来を担う“若者”たちが中心となって、誰にも大切な“お金”を出資で集め、持続可能な地域をつくる事業に低利・無担保で融資をしています。これをぼくらは「お金の地産地消」と呼んでいます。 人が地域で暮らし、交流し、支えあう。お金によって切れたはずのつながりが、お金を通してもう一度つながる。金融という目に見えないものを“見える化”するぼくらの取り組みには、生まれ育ったまちでずっと暮らしていくための多くのヒントが隠されています。 |
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| *初めて木村さんの講演を伺った時、そのしなやかさと、行動力に、「今どきの若者ってすごい!」と感動しました。聞けば当たり前で、なかったのが不思議と思えることは、必要とされることと改めて思いました。 |
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| 「さぁ、種をまこう」 | |||||
| わたくし、生まれは東大阪の瓢箪山。育ちは東京の下町、亀戸でございます。 36歳、7月には二人目のおとうちゃんになります。「特定非営利活動法人 トージバ」、「一粒合同会社」など、ライフワークとして「場」づくり、「種まき」を日々行っております。 変なおじさんがあふれる町、亀戸で小学校までは遊びっぱなし。高校は10分の上り電車(ラッシュ)に乗るよりも、90分下った梨畑の真ん中にある八千代松陰高校へいきラグビーをやると決意する。ラグビーは、15人のメンバーで構成され、背の高いの低いの、足が速いの遅いの、身体が大っきいの、小さいのそれぞれの個性に応じたポジションがちゃんと用意されていて、自分の身体と能力を最大限に発揮でき、15人が一つのチームとしておのおの働きつつ、他のフォローをしながら試合を行うのです。365日で休みは2、3日の生活が三年続きました。そして、大学の5年間は、バイトしては国内外の様々な地域をバックパック一つで旅しました。海外13カ国、多様な人種、価値観や宗教観、そして多様な生き方・暮らし方を肌で感じられた旅でした。 その後、企業で4年間働き、一年経つたびに辞表を提出するも転勤のお話を頂き、東北から九州熊本までで暮らし、日本もまだまだ捨てたもんじゃない、と思える日々を経験した後、日本福祉大学の研究員として都市農村交流を学び、独立しました。思い返せば、下町で育った子どもの頃には、銭湯があり、お寺があり、祭があり、駄菓子屋があり、常に人人が集まる「場」がたくさんありました。海を渡れば、世界中の若者が集まるゲストハウスやカフェなどの「場」があり、国内を旅すれば、地元の人と旅人が集う「場」、湯治場がありました。 「場」。それは、単なる空間のことではありません。人が吸い寄せられるような魅力のある場では、互いがつながり、癒し癒され、日々の生活を豊かにすることができる空間になれる。ならば、今の時代にあった「場」を日常の中にたくさんつくりたい、それが「トージバ」の始まりでした。 いよいよ、私も尊敬する革命家「ボブ マーレー」が、亡くなった年齢36歳になりました。ボブは、本当に多くの種まき(子供、唄、詩、言霊)をやった男だと思います。しょせん男は、まかせて頂ける時、まかせて頂ける「場」への種まきしかできない。そして、種まきにもいろいろ(映画、本、講演、畑、パートナー等々)ありますが、まいた後はちゃんと「気」を送り続けなければいけないものだと思っております。「気をつける」「気にかける」「気にする」「気をくばる」・・・。放任、まきっぱなしはいけません。 みながひとつと感じられる、やれるポジションでやれることを互いにフォローしあうこと。 みなで多様な生き方、暮らし方ができること・・・。 頭で考えずに身体にききながら、皆さんと共に、この日本から種をまく「場」をつくり、再生し、多様な生き方暮らし方をしていく「種」をふやし、広げていきたい。ヨロシクどうぞ! |
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*初めてお目にかかったのは3年前のことでした。パワーと、少年のような純粋さが印象的でした。さまざまなことを次々形にされてゆかれ、すごいなぁと思っていましたが、高校時代、全国大会ベスト16位のラガーマンだったと知り納得!です。 |
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| 「溢れる感謝という魔法」 | |||||
| 私は、昔から自分に自信がなく、どんなビジョン(目標)を達成しても、いつも自分を否定していました。そんな自分に疲れ果て、自分の命がこれをやりたい!と思って生まれてきたことを自分にやらせてあげたい、と心から思うようになりました。 「ビジョンではなくミッションを生きさせてください」 そう毎日祈り続けていたある日、奇跡はおきました。突然、子ども時代のトラウマを思い出したのです。それは、6歳の時、朝、私の隣で父が心臓麻痺で亡くなったことでした。それ以来「私が救えたかもしれない」その思いで、ずっと自分を責めながら複雑な思いで生きてきたのです。「この気持ちを誰もわかってくれない」そんな恨みのような気持ちがあふれ出しました。ところが、この恨みを持っている自分を懐かしく感じたのです。「良い心を持って生きたい」と思ってきたけれど、「これが本当の私なんだ」とその自分に観念し、子どもの頃の私の思いをそのまま受け入れました。すると、突然お腹の底から「ありがとう~」と感謝が溢れてきたのです。その感謝の思いは、自分を産んでくれた親、先祖、宇宙、自分につながるすべてのものへと拡がっていきました。「感謝はするものではなく、溢れて来るものなんだ。この感動を伝える映画を創るんだ!」と私はその瞬間に、決めていました。 そして、映画制作経験なし!技術もお金も人脈もない、ないない尽くしの中、養護学校教諭山元加津子さんの映画制作を決心します。撮影を開始し、初めて笹田雪絵ちゃんのことを知りました。「病気の自分をまるごと愛していく」そう言っていた雪絵ちゃんは山元加津子さんに「病気や障害も大切だということ、みんなが違っていてみんなが大切な存在だということを世界中の人が知っている世の中にして」と言って亡くなられたと言うのです。 その話を聞いた時、心の中で「雪絵ちゃん、わかった!映画を通して雪絵ちゃんのメッセージを世界中に届けるから!」私は泣きながら雪絵ちゃんに約束しました。そのことでさらに私は「おおばかもの」に変身し、映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」の制作に突っ走るのです。 しかも、その4ヶ月後に余命1年半、片目は失明し、絶望の淵におられた寺田のり子さんと出会い、「行け!撮っておけ。映画を作れ」そう言う心の声に従い、同時並行で撮影を続け2007年7月第二作「光彩~ひかり~の奇跡」も完成、気付けば映画監督になっていました。「1/4の奇跡~」は、山元加津子さんと子供達を通して、”あなたのままで大丈夫だよ“というメッセージが流れています。「光彩~ひかり~の奇跡」は、“わたしのままで大丈夫”を実際に生きることが描かれています。私にとっては2作揃ってやっと雪絵ちゃんとの約束を表現できたと思っています。 「ありのままを受け入れて溢れる感謝で宇宙に感謝の量を増やしたい」 やっと見つけた私のミッション。あの日感じたあの感動が今も尚、私を支えてくれています。 |
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| *2006年2月11日、入江さんが初めてカメラを回された日が、お目にかかった日でした。ホームビデオのカメラで山元加津子さんの講演風景を撮っておられました。堂々として、素人とは思えませんでした。お目にかかる度、変身しておられ人の可能性の素晴らしさを実感させて頂いています。 |
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| いのちの曼陀羅 | |||||
| 新しい価値の時代と言われ続けた21世紀も8年が過ぎました。新しい年2009年は、どんな年になるのでしょうか?いえ、これは正確ではありません。どんな年になるのか、ではなく「どんな年にしたいのか」をそれぞれの胸に問うべきなのでしょう。 市場万能、お金の価値が最高位という価値観が世界を席巻し、そして見事に破綻しました。ひとつの価値観が、極大化していく時、世界の表層は集団幻想の塊のようです。表層に過ぎなくても、それが社会の、いえ、世界のシステムとして機能している限り、集団幻想から覚めるのは容易ではありません。 生き物としての命の上に、私たちは深い智慧と豊かな感情を育ててきました。君臨する種としてではなく、共存する種として、人間の価値はあった筈なのです。働いて、食べて、助け合って、つながりあって、畏れ、祈り、感謝して、やがて土に還る・・・シンプル極まりないけれど、力強いエネルギーに満ちた命の営み・・・。そうした「いのちの視点」から、事業や起業をとらえ組み立て直したい。20年近く前の直観に導かれて、身の丈の志ある起業を支援する事業を立ち上げ試行錯誤を重ねてきました。そうして今、強烈な直観には素直に添うてみるものだとしみじみ感じています。 100年に1度と言われる「危機」は、集団幻想から覚めるには絶好のチャンスです。今人類が立ち至っている危機は「行き過ぎ」を是正する程度で済む問題ではありません。生きる、暮らす、営む、その全ての視点をクルリと回転させれば、解決の糸口、暗いトンネルの出口を見つけることが出来るのでは、と思います。 かつて故鶴見和子さんが21世紀を迎えるに当たって言われた「なにものをも否定せず、その位置をぐるりと大きくずらすのよ。新しい時代は曼陀羅の発想からうまれるの」という言葉が、追慕の念とともに、しみじみと思い出されます。 ずらす基準は、いのち、をおいてはないでしょう。いのちの視点から、新しい曼陀羅を描いてみたい・・・コミュニティビジネス起業支援に携わってきたのも、新しくコミュニティビジネス推進のプラットフォーム(協議会)を立ち上げたのも、今思えば、21世紀の曼陀羅を描きたいと願ってのことだったと思い当たります。壮大ないのちの曼陀羅を、今年もご一緒に、ひと筆ひと筆心を込めて、描いていきたいと思います。 |
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| *初めてお目にかかって20年近くになりますが、いつも元気に前を向いて歩き続けておいでの関戸さん。教師が天職だったと言われるだけあって「起業の学校」に喜々としておられる様子。卒業生の皆さんはどなたも個性的です。 |
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| 田んぼに魅せられて | |||||
| 「まだこの年になって勉強するの?」 何度聞かされただろう。40歳過ぎてから大学・大学院に進学したから、言われるのも無理のない話なのだろうか。成人したら学校へ行く余裕はない、というのが大半の意見かもしれない。「アメリカなら社会人大学生もいるけど」「中年のひねた学生が来た」など、教官からもいろいろ言われた。 もともとは水族館の飼育員だった。2つ目の勤務先水族館では、見学者の体験学習担当を与えられた。水族館を見学するだけではなく、動物や自然とのふれ合いの体験を通じて、従来型の水族館以上に自然や動物愛護に理解を深めてもらうためだ。 体験学習や環境教育に携わり、それが面白くなった。最初の水族館を退職して以降はフリーの動物カメラマンとしても活動していたから、写真と環境教育を結びつけたい気持ちがムクムクしていた。すぐに環境教育を学べる場を探し、琵琶湖という大きな水環境を抱える滋賀県に滋賀大学教育学部環境教育課程を見つけ受験・入学した。「したい」から「する」までが短期間で自分でも驚いた。環境教育の実践や愛知万博での里山インタープリータが私の教育実習みたいなものだった。その後はさらに研究欲が出て名古屋大学大学院環境学研究科まで行ってしまった。 大学・大学院とも、水田の生態学を研究対象にした。水田は三河平野に育った私の原風景であり、遊びの原点でもあった。大自然ではなく農地でありながら多く生きものが生息する水田の生態系は変わっていないように見え、多忙な現代人はその激変ぶりに気づいていない。しかも水田は農地という人の手の入った空間であるから、従来の生態学の対象にはならなかった。しかし、安全・安心な食料生産している農場を何か評価できないか、ずーっと考えていた。大学では農法で生物群集がどう変わるか、珪藻で比較した。大学院では、めっきり見られなくなった「水田で産卵する魚類」の生態と漁撈について研究した。やはり水田には興味が尽きない。 そして今、石油で作物を作るような農業に対する挑戦として、「エコたん」と名づけた田んぼを始めた。田んぼを「耕さず」に化石燃料も化学肥料も農薬も使わずに、永続的にできる循環型農業の提案だ。「昔の農法に戻るのね」と言われるが、古代から鍬が存在するように耕すことが農業の歴史だった。耕さない農法(不耕起農法)はここ20年ほどの最新の農法だ。日本人たるもの、米くらい自分で作れなくてどうする! そんな仲間が集まって、この夏「ふゆみずたんぼ・知多普及会」なるものを立ち上げた。環境負荷の少ない農法の広報と普及を高める活動をしていくとともに、個人的には米を粒食だけでなく粉食としてのメニュー提案と、水田の生態系の再生(特に魚類)を試みている。 |
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| *名古屋べてる祭りに、ソーシャルワーカーの奥様と一緒に来られ、さすが動物写真家は柔らかな空気を漂わせておられるものと思ったものでした。8月にRisaというフリーペーパーに掲載して頂いた折、“エコたん”の高山さんの連載記事があり変身ぶりに驚きました。「ご一緒していたのを、気づかれましたか?」のメールを頂き御縁復活です。 |
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| 「弱さの回復」 | |||||
| ソーシャルワーカーとして精神障害を持つ人達の生活支援に関わってちょうど30年が経ちます。私が住む北海道浦河町は、えりも岬に程近い太平洋岸沿いの小さな街です。その街の一角に、精神障害を持つ若者たちと築いてきた地域活動拠点「べてるの家」があります。過疎化が進む小さな町で、私たちは、さまざまな事業を起こしてきました。日高昆布の産地直送や、会社を作っての介護用品の販売などです。出版活動や、全国各地への講演活動も活発です。今から25年前、事業の最初の立ち上げに参画したのが、気が小さく、自称「精神ばらばら状態」で入退院を繰り返していた早坂潔さんです。 以来、私たちは、何か新しい事業を立ち上げる時には、その場で最も“頼りない人”を中心に据えて仕事を始めるようになりました。早坂さんが、自分たちの中にいると、不思議に私たちは、安心して事業に取り組めるのです。根気が続かず、同じところにじっとしていることが難しい潔さんですが、販売に関しては、お客さんの気持ちを上手に掴むばかりではなく、目の前で“ぱぴぷぺぽ状態”になり、心配したお客さんがついつい買ってあげたくなる“技”も持っています。 そこで知ったのは、彼は“弱さ”を通じて私たちをつなぐ接着剤の役割を果たしていたということです。よく考えてみると、この“弱さ”や“脆さ”というのは、私たちも同様に持っています。あるべてるの女性メンバーが言いました。「秋葉原や最近の事件をみると、自分の生きづらさと重なるものがある」と。その彼女のかかえる自分の存在へのイメージは「自分は生きていてはダメだ。」「自分は虫けらのようなものだ」「自分には存在する価値がない」ものでした。それは、自分が抱える“弱さ”を欠点と考えて、除菌クリーナーを振りかけるような自己否定の中で、“無菌”な自分を目指そうともする中で生じる存在の危機だということが出来ると思います。しかし、大切なのは、その“弱さ”が人と人とのつながりの中に活かされたとき、私たちは「自分が存在するということ」も「自分がここにいて良いんだということ」も、初めて実感できるようになることです。 私は、長い間、べてるの家の活動を一緒に担ってきた潔さんたちから“弱さ”の可能性や価値を教えられ、“弱さ”の排除が、人の排除につながり、自分という存在の否定につながることも身をもって体験してきました。いま、大切なのは“弱さの回復”なのです。 |
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*「名古屋べてる祭り」でお目にかかった日から早いもので12年たちます。「ソーシャルワーカーの大切な役割は、危機に瀕した一人の人間の命と暮しを守り育むこと」、という向谷地さんの文章を目にした時、いつも飄々としながら、注がれていた眼差しの深さを思い出しました。 |
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| 「音」と「対話」をテーマに生きる | |||||
| 「話をしてもいいですか?」「どうぞ、どうぞお話して下さい」。13歳の時、初めてハンセン病の療養所を訪れ、後遺症がひどく目の見えない女性にベッドサイドで出会った瞬間でした。内心はとても怖かったのですが、その方は後遺症で表情を作れないけれども、笑顔で応えてくれたのです。その体験があって、対話によって自分の内面が変化し成長していくことを求めてソーシャルワーカーになりました。 その勉強中に、私が理想とする対話のある世界に出会えました。AA(アルコホリクス・アノニマス)というアルコール依存症者たちの回復グループです。ユーモアがあり涙があり、共感と暖かさに満ち溢れ、そして自らを率直に語る正直な人々。私もこうありたいと思うと同時に、ハンセン病問題同様、声にならない声と現実社会の闇の部分がしわ寄せとなっていることも直感し、気づくといつもマイノリティーに目が向いていて、オキナワ本島最南端のアルコール専門病院で働いていました。 仕事の傍ら、ハンセン病療養所での聞き取り調査や、オキナワ戦の体験談など話しを聴く機会に多く恵まれました。戦争を生活者の視点で捉えるようになり、戦争のことを考えない日は一日もなくなっていました。そして実態を知るほどに、平和な社会を創るために自分自身を活かせて楽しめるような何かで、もっと直接的なアプローチがしたいと思い体当たりの挑戦が始まりました。「民謡流しのアクション」として琉球民謡を唄いながら戦争のことを伝えたり、コミュニティーラジオのパーソナリティーをしたり、地域への働きかけとして、まちづくりコーディネーターのお手伝いをしたりしました。 そして昨年6月、夫との出会いの場所であるハンセン病療養所内で結婚式を挙げさせてもらいました。感謝と感動の中、私の行動の原点をそこに見出し、「音」と「対話」がテーマであることも発見しました。私の夢は「全ての人が独自の文化を大切にし、有機的なつながりを取り戻し平和の文化が創られている」ことです。そのために、まずは自分自身と対話し、本当のことを語り、他者との対話をしつつ、想いと行動がいつも一致するように、暮らしと仕事をわけない生き方を選びたいと思います。誰しも、同じ過ちを繰り返さず、平和を創るために生まれてきていると今は思うのです。 |
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| *北海道浦河にある「べてるの家」の総会でお目にかかって以来、いつも正直に前を向いて進まれ、民謡流しのカンパを平和省プロジェクト基金に寄付される等、想いを行動に移される力の強さに見習わなくてはと思うことばかりです。「松の力」の量り売りもして頂き御縁に感謝しています。 | |||||
| 「馬鹿だからできた!オリーブとともに」 | |||||
| よく言われるのがどうしてオリーブオイルだったのか?ということ。 料理修行にもぐりこんだ南イタリアの農家民宿が、たまたま有機オリーブ農家でした。そこでオリーブオイルに開眼し、料理修行の傍ら自分のこだわりにあったオリーブオイルを見つけるため何軒もの農家を歩き回りました。やっと出会った生産者に確信を持ち3年のイタリア滞在に終止符を打ち、帰国して輸入販売の仕事を立ち上げたのが2000年でした。イタリア産の質のいい本物のオリーブオイルを日本の人々に広めることだけを考え、いろいろな方のお陰で細々ですが初心の情熱をいまだに継続し!現在9年目になります。 開眼したとは、いったいどういうこと?と思われるかもしれません。私は本物のオリーブオイルに出会うまで、その使い方を知るまでオリーブオイルにはマイナスのイメージを持っていたぐらいです。けれど、オリーブオイルのもつ素晴らしさは本当にすごいのです。日本食の‘出し汁’‘醤油’‘味噌’などに代表される調味料は、そのものの旨みを素材に足すことによってひとつの料理が完成する、言ってみれば“足し算”の料理。イタリア料理は、旨みを足すのではなく、塩とオリーブオイルで素材の味を最大限に引き出す“引き算”の料理。この秘密を知った私はその素晴らしさを一人でも多くの人々に伝えたい、そして必ずそのよさは理解していただけると確信を持ち、この仕事を立ち上げました。 イタリア料理のシンプルさは素材の力が丸見えになります。どんな素材でも良いというわけにはいかないのです。たとえば塩ひとつとっても、又主役となる野菜は特に、良いものとそうでないものの差が調理をして良く分かります。見た目は人参でも単に肥料で太った形だけのものと、有機栽培された上質の皮ごと使える人参とは雲泥の差です。 良いものを見分ける目利きになることは生きるためにとても必要になります。素材からシンプルに料理できるイタリアンはそのことを知っていただくのにとてもいい機会になります。「オリーブオイルを伝えること=食の大切さを知っていただく」につながっていき、これからも継続していかなければと思っています。 言葉も話せないで行ったイタリア。そして輸入も販売も何も知らず‘その思い’だけで立ち上げた初期、そして現在。後も先も考えない‘馬鹿もの’だったのかもしれませんが、何も考えず突っ走ってきたから今があるのだと思います。オリーブオイル使い方講習で全国を歩き回り7年になります。皆さんの喜ぶ顔は私のエネルギーの素なのです。 |
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| *朝倉さんと初めてお目にかかったのは、思えば仕事を始められた直後のことでした。 弾むゴムマリのようなパワーを感じました。現地で感動したことをそのまま伝えようと講習会方式を考え出され、今やご自分の農園でアサクラオイルも作っておられます。壁にあたっては解決の繰り返しだったそうですが、信の力が人一倍!と感心するばかりです。 |
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| 炭やきは地球を救う | |||||
| 私の生業は「炭やき」である。生まれも育ちも名古屋市内。家族は今でも名古屋近郊で暮らしている。私は単身Iターンだ。前職は列車運行管理システムのSE(システムエンジニア)。子孫に誇れる仕事で、大好きだったのだが、どうしても山に身を置きたくて、42歳のときに退職。炭やきの修行は十年前から続けていた。会社を辞めてから3年。あるときはアルバイトしながら食いつなぎ、ようやく食えるようになった。 何故炭やきなのか?どうしてSEから山仕事を選んだのか?思えば、大学生の頃、突然思い立った。大した理由があったとは思えないが、「頑固だが、楽天的な炭やき爺になる」とその時決めた。巡り巡って、今の場所(奥矢作森林塾)で落ち着き、私がここで頑張ろうと思ったとき、「必要な人間が、必要なときに現れた」と言ってもらった。それを受けて、私は真剣勝負で臨もうと思った。 「炭やきは地球を救う」これは私の師である杉浦銀治先生の言葉だ。私はこの言葉を掲げている。同じタイトルでブログも書き続けている。しかし、人間が地球を救えるとは思っていない。明らかに悪化しているこの地球環境を救えるのは、地球自身の自己再生能力だけだ。 私は、ネイティブの考えに興味があり、よく文献を読む。そこには驚くほどの知恵が見て取れる。「母なる大地・父なる宇宙(そら)・子孫たる水は永遠に流れを止めない」とある。全てのものには魂があり、名も無き山にも神は棲む。その謙虚な思いで暮らす姿が、直し方も知らないのに壊し続けてしまった私たちの責任の取り方だと思う。 「地球は子孫から借りたもの」という言葉がある。私は、まだ間に合うと思っている。まだ見ぬ子孫に恥ずべき事の無いよう、こんな地球にしてしまった責任を取らなければならないと思う。私は、そのために炭をやく。字数の関係で詳しく書けないのだが、炭やきとは山を守る事であり、山を守るとは、命の水を守る事だ。命の水を生み出すのは、間違いなく山である。水を守るには山を守るしかなく、山を守るには、山を守る人を守るしかないのだ。消費するための社会から、母なる地球を守るような暮らしに変えていくことが、本当に豊かな暮らしなのだ。山を守る仕事は、実は最先端の仕事なのだと、私は誇りを持って取り組んでいる。 儲けようとか、有名になろうなどと思わない。私の志を誰かに託し、名も無き山守として、やがて土に還ることができるのなら、それでいいと思っている。 |
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| *「さぁ入って下さい」炭を出した後の、ほのあたたかさの残る窯の中に入れて頂きました。 中で炭やきのこと、炭の奥深さを限られた時間のなかで語られる様子に、使命を感じて 生きておいでの人特有の熱を感じました。 |
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| 江戸しぐさ(=ファシリテーション) の学びの場づくり |
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| 私が今のような仕事をするようになった発端は16歳の春に遡ります。自然気胸という原因不明の病気になって何度も再発を繰り返し、「完全に治すのは無理」と医者にサジを投げられたお陰で、自分の身体に素手で向き合うことに。「どうして自分だけが・・・」と疑問が渦巻く一方で、環境破壊、食糧自給率の低下、西洋医学の限界など、さまざまな社会問題に目を向けるようになったのもその頃でした。 さまざまな健康法を試す中で、マクロビオティックと出会い、「体質改善は日常の食べ物を見直すことから」という考え方に共感。周囲からキ印扱いされながらも玄米菜食を実践し、人並みの健康を回復できたのが23歳。楽器店店員、コンピュータプログラマー、経営経済研究所アシスタントなど職を転々とした20代前半。今ならたぶんニート、フリーターと呼ばれていたような私が、知人に請われ腰掛けのつもりで始めた進学塾講師の仕事が7年も続き、結局教育の仕事に20年以上関わっているのですから、人生不思議です。 今日の自分があるのは、問題解決のヒントを日々の暮らしの中に見出し、壁を乗り越えた体験や、一番苦しく辛かった頃を原点と考え、問題は宝物と思えるようになったこと、そして、たくさんのステキな人々との出会いに支えられてきたお陰です。 少し前からNPOの関係でファシリテーション能力養成の講座を企画する機会が増えてきました。そうした流れと、私が寺子屋を屋号にしたことに結びつきを感じてはいませんでした。が、江戸期の商人たちの生活哲学である「江戸しぐさ」の知恵を現代に活かそうとする動きがあることを知り、「ファシリテーション」は「江戸しぐさ」に一脈通じているという話を読んで、思わず納得してしまいました。 寺子屋は、幕府の命令ではなく市井の人々が自発的に起こした初等教育機関で、まさしく今のNPO。その師匠は、手紙などを元に「往来物」と呼ばれる教科書を自らつくり、床の間の掛け軸など身近なものを使って門弟たちに人の道を語ったと伝えられています。その精神を現代に生かすべく、衣・食・住の日常生活を大事にしながら、一人ひとりの自発的な学びを支える場づくりを、これからも実践していきたいと思います |
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| * 淳之典さんと初めてお目にかかったのは1992年夏のはがき祭り会場。満面の笑みがとても印象的でした。その後「べてるの祭り」を一緒にする等、さまざまな関わりを持つようになるのですから、ご縁は不思議です。静かで、熱があり、長くウツに悩まされながら、粘り強く、ご自分の道を歩まれている様子は、まさに自発的な学びの実践者だなぁと感服しています。 |
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| 幸福の瞬間 | |||||
| ある昼下がり、台所で食事の後片付けをしていると、窓辺に吊るしたクリスタルが、水を張ったボールの中に、小さな虹を落としていた。思わず水に手を浸すと、虹はゆらゆら揺れて手を染めた。「あぁ、美しい!」突然、全身を幸福感が貫いて私は悟った。人はどんなときも幸せになれる。ほんの少し、幸せの感度さえあれば。幸せとは、条件ではなく、ただ感じるものだということを。 当時、夫が病に倒れ私は途方に暮れていた。3番目の子どもはまだ生まれたばかりだった。あれから20年、夫、母、父と、休む間もなく続いた看護、介護の生活に、昨年とうとうピリオドが打たれた。死ぬことは闇への道?それとも光への道?旅立つ人に寄り添いながら、そんなことばかりを考えた日々。そして死に直面する彼らから、何と多くのことを学んだだろう。たとえ、身体の機能が落ちて不自由になっていったとしても、人間は身体だけではないこと。「愛」とは未来の自分のために、保険のように何かをすることではなく、むしろ過去の自分に差し伸べられてきた、数限りない手にお返しをする「行為」だということ。そして、それを果たすために必要なものは、どこか遠い彼方にあるのではなく、既に自らの内にすべて持っていること。困難や危機という形で訪れる数々の出来事は、受け入れたときチャンスに変わること。諦めと受容とは違うこと。 健康や若さ、豊かさが、物質のように扱われる現代では、病気や老い、困難を贈り物として受け止めることは難しいかもしれない。けれど生から死への限られた時間の中でこそ、私たちは真に自由の意味を学ぶ。不幸な時に幸福の意味を問うように、悲嘆にくれる出来事の中に、感謝の光を見出すように、不自由な時にこそ自由でいられる人間を目指して。子育ての中で出会った人智学を礎として、右手にバイオグラフィーワーク、左手に花療法、この二つを携えて私は道しるべになりたい。幸せのアンテナが折れてしまわないように。かけがえのない「私」を、すべての人が生きることができるように。 |
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| *17年程前のビリンバウ奏者丸山祐一郎さんのライブを企画して下さったことが、中村さんとのご縁の始まりです。久しぶりにお目にかかりましたが、20年に及ぶ大変な日々を微塵も感じさせない柔らかな空気に、どんな状況であれ、自分を育てる姿勢を持ち続けることの素晴らしさを教えて頂きました。 |
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| 「いのちは やわじゃない」 | |||||
| 1971年5月29日、愛知県生まれ。現在は宮崎県に在住。癌サバイバー歴7年半!今日も余命宣告を日々、“一瞬一瞬”更新しながら、人が、自身のターニングポイントといかに真剣に向き合い、いかに命を輝かせていったかを伝える雑誌、命のマガジン「メッセンジャー」の変酋長(編集長)をしています。たくさんの人に支えてもらいながら、ほとんど一人で編集、取材、営業などをやっています。 1999年10月1日、僕は弱冠28歳にして、腎臓がんを宣告されました。両親には、「早くて半年、2年後の生存率0%」と告げられていたようです。 「なぜ、自分だけがこんな目に?」、まるででっかい隕石が自分の頭に、運悪く命中したように感じました。 割とまじめな学生生活を送り、地元の大学にストレートで入学、地元の企業に就職と、長男としては両親の期待通りに、本当に順風満帆な人生を送っていました。 そんな折の突然のがん宣告。しばらく落ち込んだものの、両親が僕の葬式で涙を流している夢を見た翌朝、このままでは終われないと、力強く起き上がりました。がんになった原因を探るため、病気を治すため、本気で自分自身と向き合う決意をしたのです。 がんの原因を作った“習慣(体、心、生活)”を正す旅。それは決して闘病記でなく、新たな自分に生まれ変わる“再生記”でした。 手術から早7年半の月日が流れました。かなづちの僕は、三途の川も溺れて対岸にたどり着けず、医師からの絶望的な言葉もサプリメントに変えて、ここまでやってきました。5度にわたる腸閉塞も、その痛みや鼻から腸まで通す管は、本物のナースのSMプレイと自分に言い聞かせ、快楽を楽しんできました。あっ、うそです。 ええっと。たくさんの出会いで僕は変わり、なぜか生かされています。支えてくれた両親、家族、たくさんの人に感謝の気持ちでいっぱいです。今では、がんという病気も、ぼくにとって必要な“ギフト”だったと思えるようになりました。そして、かけがえのない“宝物”です。 ワクワク生きても、クヨクヨ生きても、人生はいつか終わります。どうせならワクワク生きます!生きることが許される限り、今を一生懸命生きたいです。 |
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杉浦貴之 「メッセンジャー」編集長、シンガーソングライター
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| *数年前、ホリスティック関係の大きなイベント会場で、知人とすれ違いざま、一緒にいらした杉浦さんを「この人腎臓ガンでね…」と紹介されました。そんな細い糸のつながりでしたが、「メッセンジャー」を送って頂き、闘病中の友人にプレゼントして喜ばれました。今年の5月、「今度里帰りします。お目にかかれたら…」というメールで再会。別人のように顔色もよくなられ、元気イッパイ。出来立てのCDはとてもステキで、人の可能性のすごさを感じました。 ★メッセンジャー:1冊200円、隔月発行・年間定期購読2000円(送料込)。 お申し込みは杉浦さんまで(HP、お電話等で) 命のマガジン「メッセンジャー」 がんなどの病気や様々な挫折を乗り越えた方、前向きに生きる人々の想いを伝えます。コンセプトは「あなたのいのちが輝きますように」。1冊200円、隔月発行・年間定期購読2000円(送料込み)。現在最新号は14号で、バックナンバーもすべて揃います。http://www.taka-messenger.com CD「life is strong」杉浦貴之全作詞作品、7曲入り2000円。 「いのちは、やわじゃない。奇跡の復活を遂げた男が届ける、優しく温かい、いのちのうた」。命のはかなさを伝えるニュースが多い、今の世の中で、“命のたくましさ”を伝えたい。 曲目→「大丈夫だよ」「life is strong」「君の待つ場所へ」「別れの歌(抜歯の歌)」「かあちゃん、ごめんね」「なんだかたのしくて」「love song ~ありがとう~」 http://www.lifeisstrong.org(試聴できます) <感想> 「何度聞いても涙がとまりません」 「子どもと毎晩聞いています」 「不登校の子どもがこの歌を何度も聞いて学校に行くようになりました」 「私の人生甘かったです、もう一度夢に向かってがんばります」 「ひきこもり・・の息子がこの歌を何度も聞いていて、今日半年ぶりに家族で外出してきました。息子曰く、今俺は生きてるんやからな・・って。涙がとまりません」 <杉浦貴之 プロフィール> 1971年5月29日、愛知県西尾市生まれ。1999年10月1日、28歳にして、がんを宣告され、即手術。化学療法2クール。両親には余命は「早くて半年、2年後の生存率0%」と告げられた。 現在は宮崎県に住む。命と向き合い、今輝いている人々の体験を綴った情報誌「メッセンジャー」の編集長兼変酋長をしている。 2005年12月11日ホノルルマラソン完走、「走れるほどに元気になったのではなく、走ったら元気になった。まずは動くこと」本人談。現在、トーク&ライブ、講演、取材と全国を駆け回っている。2007年5月13日、NHK「つながるテレビ@ヒューマン」出演。 2007年4月20日、オリジナルCD「Life is strong」発売(http://www.lifeisstrong.org)。 メッセンジャー(http://www.taka-messenger.com)。 |
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| 「想いは美しい光となって」 | |||||
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この詩は2006年4月2日、チェルノブイリ原発事故から二十年、未来を創る芸術文化イベントのために書きました。この集いは、絵本作家の葉祥明さん、科学者である藤田祐幸さん(慶応義塾大学助教授)と共に平和・人権・地球環境のことを語り合い、また、芸術・音楽を通して共有してゆこうとするもので、私は、お二人をつなぐ役割と、音楽を担当させていただきました。 チェルノブイリ周辺での放射能汚染、ユーゴスラビア、コソボおよびイラクにて劣化ウラン弾による被爆と、その放射能によって人体と環境に及ぼす影響など、スライド写真を見ながら、今の世界の現実にふれ、胸が痛みました。特に子供たちが白血病に冒され、無残な姿になって死んでゆく写真は耐え難いものでした。しかし、そういう事実を知ったとき、私たちにできることは何だろうかと考えさせられました。 葉さんのアムネスティーの本「想いは美しい光となって」をタイトルにして、私は詩を書き、それに曲をつけ、合唱団や会場の皆さんと共に心を合わせて歌いました。 たとえ大きなことはできなくても、心の在りようを明るい方に向け、善い想いを伝えてゆくことが大切だと思います。ひとりひとりが美しい想いをもち、優しい心で生きてゆく時、世界は平和になって光に満たされてゆくだろうという希望を抱いています。 |
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*「もしもしピアニストの林です」電話の向こうから、懐かしい声が聞こえました。韓国でのコンサートや、東大寺の公慶上人300年を記念した作曲等多彩な活動をされていますが、少年のような純粋さは変わりなく嬉しかったです。秋に名古屋でリサイタルをすることになりました。あの涙がこぼれるようなピアノの音が又聴けると思うと楽しみです。 |
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| 「フィリピンと日本を結ぶ ビデオメッセージ・プロジェクト」 |
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| ……戦争体験者の声に耳を傾けて…… | |||||
| 「日本人なんか見たくなかったのに何であんたはフィリピンに来たんだい!」 7年前の2000年3月。年老いた女性が、細い身体を震わせて訴えてきました。大学生数名でフィリピンを初めて訪れた時のことです。 その女性は、1942年に結婚した翌年、夫が日本兵に連行され殺された未亡人でした。怒りと憎悪を胸に溜めこんで生きてきた彼女は、戦後初めて会う「日本人」を前に泣き崩れました。当時大学生だった私たちは、涙をこらえることしかできませんでした。 そして帰国後、自分が関った残虐行為を亡くなる直前まで嘆き、老人ホームで息を引き取った方の話を聞いた時、やるせない想いで一杯になりました。被害者は勿論、加害者も同様に、戦後数十年経とうと癒えぬ深い傷を抱えていたことに、ショックを受けました。 私は70年代生まれの戦後世代だけれど、「何かできないか」。ぶつけるところのない怒りが未だに渦巻いているフィリピンへ、元日本兵の想いをビデオメッセージとして届けたい。いつしか私はそう思うようになっていました。被害者と加害者の想いを映像で伝え合う「フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ・プロジェクト」は、そんな私の素朴な想いから始まりました。 ただ、私のような若い世代の者に、元日本兵の方々が「心の傷」をすぐ打ち明けられるはずはありません。証言者探しは困難を極めましたが、最終的に14名の方から話を聞くことができました。頑なに話すのを拒んでいた方も徐々に打ち解け、「戦争の話をしたのは久しぶり。本当にすっきりした」と感謝されたこともあります。 そして2005年10月、フィリピンで上映会を開催しました。 「彼らも犠牲者だったんだ。為政者に言われるまま戦地に赴いた。本では読んでいたけど、実際に聞けてよかった」「日本は経済大国になり、戦争のことなんて忘れたと思っていた」「元日本兵もいまだに苦しんでいることにびっくりした。彼らの勇気に感謝したい」約1ヶ月の滞在中20箇所で上映し、たくさんの感想を頂きました。 相互交流の実現は勿論のこと、私にとっては過去でしかなかった戦争が身近になり、戦争の悲惨さや異常な心理状態が少し理解でき、戦争はやっぱり嫌だ、と心から思えるようになったことが大きな収穫でした。もう一度戦争を体験したい、なんて言う方は一人もいません。「同じ体験を誰にも繰り返してほしくない」。ほぼ全員が私に伝えてくださったことは、とても大きなメッセージと受けとめています。 私は、今後も戦争体験者の声に耳を傾けていきたいと思うと同時に、もし、戦争の起こる原因が特定の国の経済発展や資源確保のためであるならば、奪い合いのない持続可能な循環型社会を目指し、持てるもので暮らせる方法を模索したいと思っています。 |
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| *Begood caféさんのエコプロダクツ展担当をされていたことが、神さんとのご縁の始まりです。ある日送られてきたメールで、ビデオメッセージ・プロジェクトの事を知り、想いの深さ、すごい行動力に感心しつつ、当初これほどお若い方とは想いもよりませんでした。知ってしまったら行動しないではいられない…、知ることの力を教えて頂きました。 | |||||
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| 健康と病気を越えて | |||||
| 物心がつく頃から私は、将来は医者になると決めていた。親は商売をしていて、一人っ子だったので、跡を継がねばならないはずだったが、初志貫徹して医者になった。しかし、医者になってからが迷いと葛藤の連続だった。というよりも、医者として本当は何がしたいのか?問いが深まる一方だった。その問いと共に、外科、心療内科、ついに西洋医学を離れてセラピストになって約20年が過ぎ去ろうとしている。 振り返ってみると、人間の肉体、精神・心理、そして更に深いスピリチュアリティーへと探求と体験が進んできたように思う。今私は、これ迄の体験と知恵を統合した形で再び医者として立ち、独自のクリニックを開設する準備をしている。 対症療法ばかりが中心だった日本の西洋医学が、予防医学の大切さを啓蒙し始めているが、実は何も変化していないと思う。何故ならば、予防という概念の根底にあるのは、病気と死への「恐れ」に他ならず、既に病気に負けているからだ。恐れから立ち上がったモノやシステムは、どんなに良く見えても新たな恐れを生んでいく。そしてその新たな恐れを問題視して解決に躍起になり、新たな解決方法を見つけては、それを創造と人々は呼ぶが、はたして本当にそうだろうか?今世界は、医療のみならずあらゆる分野でこの恐れと問題解決の罠にはまっており、そのせいで全てが複雑化し、行き詰まっているように見える。 医療の分野でいうならば、病気や死に対する恐れのせいで、健康と病気、生と死という二極性の檻に閉じ込められている人間の魂をいかに解放するかという事こそが、真の創造なのだとあえて言いたい。それは、健康と病気を包含した「大いなる健康」、生と死を包含した「大いなる生」に気付いていくことであり、今まで病気や死を恐れ、囚われていた自分自身の意識を変えていくということである。 といって、医者として患者さんの病気や死にそうな状況を放っておくという訳ではない。ベストを尽くして治療に当たるのであるが、その意識で病気や死に接していくと、かえって治りが良くなり、生を全うしていくことができるのだ。 これから私は医者として、人々の心身の健康のサポートのみならず、「大いなる生」へと意識を開いていくお手伝いをしていきたいと思っている。
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| 病気が教えてくれた魂に寄り添う生き方 | |||||
| 20代、30代の私は、いわゆるバリバリのキャリアウーマンと言われるような生き方をしていました。目標や目的を達成する喜び、人からの評価や承認を得る喜び、それが私の生きる原動力になっていました。上昇することしか頭になかったのです。 そんな生き方をしていた私に、天が大きな試練を与えてくれました。36歳の時のことです。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し死に直面。私のお腹の中で新しい生命が育まれている時に、私の頭の中には、私を滅ぼす腫瘍も同時に育っていたのです。いのちの「創造と破壊」が同時進行で起きていたことのショックと、生き地獄のような闘病生活。 私は、なぜ36歳という若さで、あの世に片足を突っ込むような体験をしなければならなかったのだろう? 私はどんな生き方をしてきたために深く病んでいったのだろう? そして、なぜもう一度いのちをいただいてこの世に戻してもらえたのだろう。もし人が、一人ひとり自分だけの使命や役割を持ってこの世に生まれるのだとしたら、私はなんのために生まれてきたのだろう・・・。 この問いに対する答えを求めて、私は数年に渡り自己探求の日々を送りました。やがて、病気は、本来の私を取り戻し、魂の願いに寄り添って生きなさいという大いなる存在からのメッセージであり、贈り物だったのだということに気づきました。 病気は、私に「降りる」ことを学ばせてくれました。降りることは、ドロップアウトでも、退却でも、逃避でもなく、新しい豊かさや幸せの価値体系に自分を開いていくことでした。それは、大地に根を張り、人生の喜びや慈しみや優しさにそっと寄り添って生きていくことの幸せを教えてくれる生き方でした。 私は今、自分の苦しみの体験を生かし、人が本来のいのちの輝きを取り戻し、魂の願いに寄り添って生きていけるようなワークショップや感性教育の研修、カウンセリング、講演、執筆活動をしています。自分のいのちの輝きが、他のいのちの輝きにつながる、そんな人生に押し出してくれた病気に対して、私は今心から感謝しています。 |
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| 旅も人生も、一人ではない… | |||||
| 「本当に今日で終わるんだね。」「もしもし、はじめまして、Nさんからお話を聞いて電話しました。」「ファイトー!」「どこの道を歩いていますか?何時ごろにゴールしますか?」 2006年1月25日、天気予報では雨。宗谷岬から3500㌔の9ヶ月にわたる日本徒歩縦断の旅の最後はどうしても晴れてほしかったのです。祈ったかいがあり、晴天でした。一日中、全国で出会った方や、仲間からの応援の電話やメールが沢山届き、話を聞いて駆けつけ、一緒にゴミを拾いながら歩いてくれる人もいたり、本当に嬉しい悲鳴でした。 ずっと目指していた喜屋武岬が見えてきた時、旅中に出会った方々や、これまでの人生で出会った方々が走馬灯のように浮かんできました。と同時に、私の目に飛び込んできたのは、沖縄でお世話になった方やMOKUの代表と両親でした。嬉しくて嬉しくて、涙がとめどなく流れ、グチャグチャの顔のまま、皆さんに囲まれてのゴールとなりました。 数日後、ゴールの数ヶ月前に私の存在を知ったNさんが、約20人程で、旅を振り返り、語る「小山田を囲む会」を開いて下さいました。彼女は、大きな企画にした方が良いのでは?とか、一緒にゴミを拾いたいとか、企画自体を見直した方が良いかも…など、計画中、時に泣くほどの葛藤があったことを話してくれました。私一人の為にどうして?と思ったり、私が旅中に考え、悩んだりしていた事と同じような感情を抱かれていたことを不思議に感じました。どうしても気になり、時間を作ってもらい話してみると何年来の友達のようで、話が止まらず夜中までお互いのことを語り合いました。その時に、物事は自分自身の受け取り方、考え方次第なのだと感じることができたのです。「北と南の良きライバル」という彼女の言葉と再会の約束が、旅最後の素敵な出会いでした。 道中、何度も何度も出会いを喜び、別れを寂しがってきました。が、おかげで全国に家族や友達がたくさんでき、帰る場所が増えました。旅はたった一人だったけれど、本当は一人ではありませんでした。それは旅だけに限らず、生きていく上でも言えることではないのかなと思いながら歩いていましたが、旅を終えた今、強い確信となりました。今回得た宝物を大切にし、これからの人生で活かしていきたいと思っています。 徒歩縦断の旅にはピリオドを打ちましたが、「日本を世界一きれいな国にする!」というテーマの私の旅は、これからもまだまだ続きます。精一杯楽しみ、前に進んで行きたいと思っています。 |
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| 日本の伝統楽器の防人として | |||||
| 中学校での障害児学級担任の職を辞し、日本の胡弓演奏家という道を選んで六年が過ぎました。音楽が好きで、学生時代からアマチュアバンドを作り、ギターを手に演奏をし、時にはフラメンコやフォルクロ―レを奏でることもありました。自国の楽器や音楽を誇りに思い、作曲・演奏活動を行なっているフォルクローレの演奏家たちや、「自国の楽器で演奏し歌うことがフォークソングの原点だよ」、というピート・シガーの言葉に刺激をうけ、ギターの六本の弦を、三味線の伝統の調子にあわせ、津軽じょんがら節曲弾きをそのままギターで演奏したりしていました。 二十代半ば、とうとう三味線を手に入れ、津軽三味線の名手菊池栄蔵氏に手ほどきを受けることができました。それから、尺八・琴・琵琶など日本の伝統楽器と交流する機会が増え、その中で、最も惹かれたのは360年余の歴史を持つ日本の胡弓でした。三味線を小型にしたデザイン、長い弓、ふさふさの毛。沢山の毛が糸を擦ることによって生じるザーという独特の音色、くるりくるりと楽器を回転させる演奏技法などオリジナリティにあふれていました。中国の二胡は金属弦で、絹糸を使用するのは日本の胡弓の特長です。日本の胡弓の美しい音色は絹の弦が鳴り響くことによって生まれ、絹の輝きや質感が音として存在する、アジアの胡弓の中でも貴重な楽器なのです。 しかし、初めて手にした胡弓は魅力的な音色を十分発揮することができず、それゆえに未知なる可能性を秘めた楽器に思えました。そこで数少ない名演奏家を訪ねました。東京のA氏は力強く美しい響き、越中おわら胡弓の名手伯育男氏は、哀愁と艶のある、すばらしい音色。共通していたのは、自分の手で駒や弓、楽器本体のデザインまで、手がけておられることでした。「魅力的な音は自分で作ればいい…」と気づき、この楽器に創造のエネルギーのすべてを注ぎ込みたいと思って歩んできました。16年ほど前、やっとの思いで入手した宮城道雄考案の大胡弓に、馬の毛や、何十種類の糸を揃え、二十を超える駒を、四苦八苦しながら作り、試行錯誤の結果、従来の三弦ではカバーできない3オクターブあまりの音域を持つ豊かで美しい響きの四弦大胡弓が完成しました。1997年オーケストラとのコンチェルトでソリストとしてこの胡弓を奏でましたが、重奏な管弦楽に、四本弦の大胡弓の音色が重なり合い、見事なハーモニーとなりました。僕にとって胡弓は演奏・作曲のみならず、楽器製作まで創作意欲を引き出してくれる楽器なのです。 四弦大胡弓・胡弓・津軽三味線・ホーミーを奏でるスタイルは「石田音人ワールド」と言われています。大正時代の幻の低音胡弓「玲琴」の復元・演奏も、先駆的な取り組みになると思っています。今は水琴窟と胡弓の合奏や、玲琴を取り入れた四枚目のアルバムを製作中です。日本ならではの伝統・伝説を胡弓の多彩で豊かな音色を使って表現し、この素晴らしい胡弓をもっともっと広めていきたいと願っています。 |
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| 信じることからはじめたい | |||||
| 12年勤めた運送会社の社長を辞めて一年が経ちます。46歳の決断でした。今は、知的障碍者の働く場所を創ろうと動いています。どうしてこういう人生を歩んでいるのか、その理由は12年前に遡ります。 94年、事故で子どもに障碍を授かりました。どんなことをしても結果を出してきた人間が、目の前にいる娘の障碍を治すことが出来ない。無力な自分と直面して、生き方を揺さぶられました。傲慢な人間が娘の障碍と向き合う中で、弱さの価値に気づき、「共にある事を大切にする社会を創る」という志を与えられました。障碍のある娘が生きていける社会を創る為に、社長の資源(資金、信用、経営ノウハウ、人脈)を活かして、地域で互いに支える仕組みを事業で創りたいと考えるようになりました。そして、地域の問題をビジネスで解決するコミュニティビジネスに特化して、リサイクルショップ、子育てママの喫茶店、市民出資のタクシー会社など複数の事業を創業しました。でも、あれもこれもやり過ぎて燃え尽きてしまって・・・、一度全てを手放したくなり、社長を辞め、一人の人間に戻りました。 独立した当初は、キャリアカウンセラーの資格を取り、将来に夢の持てない若者向けの就労支援事業を創ろうとしました。人身売買もどきの人材ビジネス業界で苦労しつつ、本当に自分がしなければならないことは何かと、何度も自問自答を繰り返しました。その過程でひとつひとつの可能性を手放していった時、最後に残ったのが、知的障碍者の働く場所を創る事でした。そこで、私の固有の物語、必然性にもう一度つながりました。 彼らから学んだ事があります。採算と効率のために切り捨てられた所にこそ、社会にとって大切なものがある。人は、経済的価値に置き換え不能な、その人の固有の物語、生きる意味があるということです。生きる意味を取り戻す事、それが、個人が世界とつながる事であるのなら、彼らの存在にそのヒントがあると思うのです。彼らはまわりの関係性を引き出す力、誰かの助けを促す力を生まれながらに持っているからです。彼らが地域で普通に働き・暮らす事で、地域の関係力を喚起させたら、地域で互いに支える仕組みが出来ると思います。 事業を立ち上げるためには、まずは地域で助けてと声に出して手をあげること。それは、この手をつかんでくれる誰かの存在を信じているからできることです。今、必要とされているのは、先の見えない将来の向こう側に、明るい未来が待っていると信じる事、未来を信じる力ではないでしょうか。信じることから始めてみようと思います。 |
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| おとなってなに? | |||||
| 「おとなってなんだと、思いますか?」「今のあなたは、こどもの頃、ご自分が思い描いていたおとなに近づいていますか?」 誰でも初めはこども(・・・)でした。やさしい心や素直な気持ちを持って、夢や希望を抱いておとな(・・・)になることを夢みていたはずです。しかし年齢を重ね、日々の暮らしを繰り返しているうちに、こどもだった頃の自分の夢をうっかり置き忘れてしまってはいませんか? おとなが夢を忘れてしまえば、こどもは、夢の存在を知ることも出来ません。おとなになれば、なるほど夢を膨らませなければ、夢の風船は萎んで、世の中から消えてしまいます。そうなったら大変だと不安を感じたのは、今から18年前のことでした。 何とかおとな達に、忘れかけた”夢”を思い出して欲しい、今のおとな達が、こどもの頃に憧れていた、想い描いていた自分のおとなの姿と、おとなになった今の自分の姿を見比べてもらうことができたなら、何かが変わるかもしれない。もしかしたら、殺伐とし始めた世の中が変わるかもしれない。 そのために、私に何が出来るだろうかと考え、思いついたのが、こども達の詩や作文を構成しての「ひとり芝居・おとなってなに?」の公演です。東京と名古屋で連続して9年間続けました。けれど、10年目に思いもよらない、とても悲しいことに出会い、芝居をすることの意味を失いかけました。 そんな時、樋口一葉に出会ったのです。彼女は、24歳でこの世を去りました。私が演劇の世界に入り、夢への第1歩を歩み始めたと同じ年齢でした。彼女の作品には憧れが溢れていました。“夢みる夢子・樋口一葉”は、朝露のように儚い、頼りない自分の感性だけを頼りに、生き抜いて、書き抜いて、100年以上後輩の私たちに、言葉にできない想いを、文字で残してくれていたのです。私はとても感動して、すぐさま、ひとり芝居に仕立てての公演を開始して、あっという間に9年が経ちました。 この世に生を受けた私たちには、「肉体」という形があります。けれど、その形を存続させるには、「夢」というものが、とても大きな部分を占めているように思います。形にするには難しく、言葉で伝えようとしても、もどかしい・・・存在があるような、ないような、自分以外の人には分かってもらうのもママならない、「夢という想い」をもち続ければこそ、年齢は重ねても、こどもの頃のような屈託のない自分の笑顔に出会える瞬間を得られるのではないかと思っています。 |
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| 自然の教えてくれた“ものさし”に照らして | |||||
| ある特別養護老人ホームで、認知症と呼ばれるお年寄りと、「生花を叩いてはがきに写す」という活動をしたときのことです。ひとりの男性が、「花がかわいそうだ」とおっしゃるのです。困った私は、どうしたものかとお聞きしましたら、「花に謝りなさい」とおっしゃいます。それから、みなさん叩く前に手を合せて謝るようにしました。その男性もまずは謝ってから、人一倍強く叩くのです。「謝りなさいと言った割には」と声掛けすると、「やるからには徹底的にやる」と何ともすがすがしく、叩き終わるとまた手を合せて、深々と頭を下げられるのです。こういう場面に出会うのがたまらなく楽しくて、園芸療法を続けています。その人なりの物語が垣間見える瞬間です。いのちが輝いているように見えるのです。 病気や障害そのものがその人を生きにくくさせているというより、「時間」とか「右肩上がりの進歩」とか「分類のしやすさ」という“ものさし”で評価される自分を自分だと思い込むことの方が、本来の病気や障害以上の「障害」になっているような気がします。 「種というあのちっちゃな体の中に、すでに花になる情報が詰まっている」「目に見えない世界の中でも、いのちは営み続けている」ことや「その時が来なければ花は咲かない」「人間の計らいを超えて生まれ、死ぬ」ということを私に教えてくれた自然は、別のものさしに気づかせてくれました。「あなたは、あなたのままですでに足りている」こと「見えないものに目を凝らし、聞こえない声に耳を澄ます」「待つ」「いのちは、生きるためにある」などなど。 そうしたものさしに照らした場作りに専念していると、まさに私の計らいを越えたところで、いのちは輝き出すのです。私は、それを映し出す合わせ鏡のようなものです。鏡に映し出された自分の姿に、いのちは喜びますます輝きを増していくような気がします。 私は、立会人として、記憶し、記録し、語り継いでいくのです。 人は、あわせ鏡によって変わるものです。時代の価値観によって変わる人間のものさしもひとつの鏡。園芸療法という場は、自然というものさしもあるよ、というより本質的なものを映し出す合わせ鏡を提供する場のひとつなのかもしれません。 |
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| ハバロフスクから農業へ | |||||
| 縁もゆかりもなかった福島県は阿武隈山地の北端にある飯舘村に来て、農業を始めて早くも5年が経過しました。 ソ連の政治に関心を持つようになり大学でロシア語を専攻、東京の小さな通信社で旧ソ連圏の主にラジオニュースの翻訳を仕事としていた私に、こうした生活でいいのかと最初に疑問を抱かせてくれたのは、ロシア極東のハバロフスクで過ごした90年代半ばの2年間でした。日常生活のちょっと手に負えないことのほとんどを他人頼みにし、それを当たり前のように考えていた私でしたが、それとは反対に、家の修繕、車の修理、家具の組立、野菜作り等など、大抵のことを自分でやるのが当然というロシア人の態度や行動、そのたくましさに圧倒されてしまったのです。当時のロシアはエリツィン政権の経済自由化政策によって生じたものすごいインフレ下にありました。日本ではロシア市民の生活が困難になっているという見方が大半だったのですが、私の見たハバロフスク市民は、その半数が郊外に家庭菜園を持ち野菜の多くを自給するなどして、経済的困難に明るくたくましく立ち向かっていたのです。 自分の生き方に疑問を感じながら帰国した私は、ふとしたことからわずか2坪ほどでしたが家庭菜園に取り組むことになりました。そこにはニュースの翻訳とは全く別の世界が広がっていました。あくまでも受け身の態度で正確さを第一とするニュース翻訳と、こちらの働きかけ次第で様々に変化する野菜作り。もちろん思い通りにいかないことの方が多かったのですが、農業への想いは深まるばかり。目の前に興味のつきない世界が広がっているのに、夜勤生活をしながら遠い外国のニュースを相手にしていることが苦痛になりました。当時者として、自分で何かをやりたいという願いは日増しに大きくなっていきました。そうなると、「好きなことをやる」を人生の目標とし、「今しかできないことをやる」を迷った際の判断基準としている私のことゆえ、転職・就農を決意するのはあっという間でした。 研修やら土地探しやらの準備期間を経て就農して以来、鶏小屋4、薪置き場3を作り、母屋に庇をかけ…と、必要に迫られてとはいえ日曜大工すら未経験だった私が、想像もできなかった技術を身につけ、鶏の世話や米・野菜作りに取り組む毎日を送っています。 百の仕事をする「百姓」になったからには平飼い養鶏以外にもいろいろ取り組みたいと、ここの土地の条件に合い、無理なく楽しく取り組める作物の選定を進めているところです。
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| 「芸術と福祉」目にみえない生産性を認めよう |
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| 昨年の秋、アートスクウェアという知的障害のある方が仕事をするための活動の場を作った。すったもんだといろいろあったが、たくさんの想いが集まって、何とか、開所した。 開所したアートスクウェアは、通う障害のある方々の魅力と、スタッフの頑張りで、たくさんの出会いを紡いでくれる空間となった。とりわけ、芸術を楽しむ空間なので、芸術家と新たな出会いがあったのが、僕としては、とても有意義なことだった。 先日、そういった縁で出会った、芸術家の人達と話をした時のこと。向こうも、僕に興味津々らしく、「あなたは、どんな生活をしているの?福祉の世界はどうなっているの?」とたくさん質問をされた。逆に僕が、芸術家の人達に、まったく同じ質問をしたかったのだけれど、礼儀としては、人のことを聞く前に自分のことを話すべきかと、自分の置かれている環境をいろいろ話した。新しい福祉をやりたいと思って独立したこと。ずっと行政に支援してもらえず、ひどく貧乏だったこと。やっと補助金をもらったと思ったら、この不況で福祉が切り捨てられ、また、貧乏になりそうなこと。それでも、夢を諦めたくないことなど。いつもの如く、一生懸命話した。 「は~!同じだね」僕の話を聞いて、芸術家の皆さんが、大きなため息をつき、しきりにうなずき合っていた。どういうことかと、僕が不思議そうな顔をしていると、一人の人が解説して下さった。「バブルが弾けてさ。美術館なんかの予算が切られて、芸術家もみんな貧乏さ。全然作品を買ってもらえない。それでも、夢を追いかけて、みんな泥水すすって生きているよ」そういうことかと納得した僕が、今度は大きく「は~!」とため息。 目に見える生産性だけが、本当だと思っている国、日本。不況になった時こそ、心の豊かさ、ゆとりを持つことの大切さに改めて気付くチャンスなのに、そういったチャンスを自ら遠ざけてしまう愚かさよ。心の安らぎなしに、人はより良く生きては行けないのに。 芸術と福祉。目に見えない生産性をきちんと認められる国になって欲しい。そこが変わらない限り、この国は二流だと思うのです。 |
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| 熊野 天女座物語 | |||||
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場末のバーのピアノ弾きだった頃、波乱万丈で希望がなく、自分のことが嫌いで人とも話せなかった私。京都の森の中の家に暮らすようになって、桜が二週間咲く為に一年間暑い日も寒い日も立っている姿を見て、成功しなくてもいいから自然に生きていきたいと思うようになりました。 それからは自分のことが好きになり、人ともたくさん出会いたくなり、「十万人とふれあうコンサート」と称して、小さくても、遠くても3百㌔の機材を担いで全国行脚を始めて十年。全国や海外で5百ヵ所以上の演奏をし、宝物とも言える素晴らしい方々と出会いました。そして長年の夢である「海の見える音楽ホール」を作るために、熊野に引っ越して五年目になります。 ![]() 使われていなかった建坪143坪の自動車部品工場を、地元の大工さんと、延べ百名のボランティアの共同作業で改装し、天女座が完成しました。芝居小屋風で、舞台背景には松羽目とイメージしていましたが、偶然、伊勢神宮での演奏の帰りに骨董屋さんで束ねられている松の絵を発見。5万円という価格につられて、中の絵も見ないで持ち帰ったところ、舞台とぴったりと寸法が合う、見事な老松でした。それは、二見ヶ浦の老舗「いせや旅館」のもので、琴の名手の宮城道雄さんがこの前で何度も演奏したという素晴らしいものでした。以来、この舞台でオペラ歌手の岡村喬生さんや、能、モンゴルの馬頭琴、演劇等々1年間で60以上のイベントを行い、全国から3500人以上の人たちが訪れて下さいました。 太平洋一望のカフェも人気です。私たちは演奏後、すぐ廊下を走りながらウエイトレスに変身し、ビールを運んでいると「あれ?さっき演奏していた人に似ているね。」と言われて笑えます。私が獅子舞、夫の矢中鷹光が神楽笛を毎月東京に習いに行き、地元の80年前の獅子舞を復活させて、やるようになってから日本の伝統文化の素晴らしさに目覚め、着物の着付けや、お茶を習っている日々です。又地元民を俳優にした神楽や地芝居を立ち上げ、地元の人たちがスポットライトや拍手を浴びて元気になってみえます。熱帯魚が舞うエメラルドのパラダイスの海、夜になると、天の川や星が美しく遠くに漁火が見えてため息!日本の古き良き故郷、熊野を満喫しています。 落ちこぼれだった私がこんな風に輝いた日々を送っているなんて信じられません。夢は必ず実現する!と伝える為に今日も全国コンサートに出かけています。 |
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* 「世界平和は家庭の平和から」を合言葉に、紫帆さんご夫妻は いつも仲良く楽しげです。ふれあいコンサートは、大きなホールや、離島、 病院、留置所等々さまざまな場所でやっておられ、企画された方たちとの 心の交流が感じられるあったかいコンサートです。 |
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| 生き方を発明しよう!それが発明主義。 | |||||
目白の発明家イアンです。「人」の社会デビュー、「モノ」の市場デビューをサポートするために『i-debut』プロジェクトを主催しています。約3年間の活動で、読者と身近な環境問題を考える『動物かんきょう会議』プロジェクト。目白駅半径5km圏内の「人」と「人」とが交流するきっかけを「印刷物」と「IT」を駆使して創出する『目白バル文庫』&『BALL/バルとは盛大なる舞踏会』プロジェクトなど、約15のメディア企画が進行または開発中です。 「えっ、メディアづくりが発明品?」と思われるかもしれません。 「発明家=特許取得=一攫千金」と連想された方は「発明家」を誤解しています。 発明とは「新しいライフスタイルを創造すること」です。別な言い方をすれば「日常の問題を“美”しく“優雅”に“楽”しく解決すること」が発明なのです。世の中、便利になりすぎましたよね。お金さえあればいたれりつくせりです。そして思考停止にさせられた「人」は、本来の美しさを失いつつあります。私が目指す発明とは『人間が本能としてもっている「創造の喜び」を活性化させるきっかけ』をクリエイトすることなのです。 “人”こそメディアである。 このコンセプトを実証するための活動を2000年に着手しました。しかし、“ワタシはメディア(主役)である”と自覚している人がどれほどいるでしょうか? いつのまにか、私たち“日本人”は自分では舞台上には立たず、客席で批評ばかりするようになり、もはや自分自身で椅子から立ち上がることができなくなっているかのようです。「舞台上の“人”」と「観客の“人”」この習慣化してしまった相互依存の関係性に揺さぶりをかけないかぎり新しいエネルギーは生まれないと考えます。 私たちは、生きています。2~3時間程度の舞台のような“単発”公演ではなく80年以上の“持続”公演です。私たちが生きていくためには「確かな手応え(目的やメリット)」が必要です。メリットを発見できれば、きっと人は椅子から立ち上がらずにはいられません。
メディアとは“人”と“人”とをつなぐこと。交流を生むきっかけを創出するものです。 情報の受信者から発信者へ。発明主義をコンセプトに楽しく立ち上がりませんか。
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| * 発明家筒井さんは一体いくつ顔があるのかしらと思うほど多才です。ITのみならず、絵本、ブロンズ製作やCD製作etc.人間の可能性ってイッパイあるなぁと思わされます。エコブランチもwebマガジン「つるかめ村の四季」はじめi-debutのお世話になっています。 | |||||
| 全ての生命体と手をつないで… | |||||
| 家族でオーストラリアのクィーンズランド州の片田舎街に移民してから早8年が経ちました。自然の中で感動気づきを日々与えられながら自然に学びを受け、素人ながらの半農自給暮らしが始まりました。都会暮らしで当たり前のように謳歌していた(今思えば不必要であった)便利さと収入を引き換えに、自らの心・体・スピリットが心地よい気持ちよいと感じるままに暮らしをシフトしていったら、いつしか家族の普通の暮らしが人様を呼び集め伝わり不定期の体験民宿やワークショップ、ツアーを共に開く場へと進化していました。 命授けられた者同士が和を結び輪と連なり、大きな宇宙という空間の中それぞれのエネルギーを分かち合いながら共に更なる命を育み創造していきます。地上の目に見える存在ばかりが中心になりがちな世の中ですが、目に見えない心で感じるしかない存在や、足元や土の下の数えきれないミクロとマクロの生命体の存在、これまで気付かなかった存在を受け入れ仲良くなるとあら不思議、そこには笑顔あふれる安心したエネルギーに満たされた現実の暮らしが待っていました。宗教でも難しいことでも何でもありません。 私たち皆生かし生かされてる者同志、ちょっと目を向けると足元の日常の暮らしの中にはその宝物のようなキラキラしたヒントや歓びの源、命が「一緒に手を取り合おうよ!」ってこっちを見ている姿がたくさん発見できるのです。森羅万象全てに、宇宙と繋がる生命が宿っていると感じます。毎日のご飯の素材一つ一つに、お風呂に入るという現象に、部屋の光・香り・温かさの中に、体や暮らしから排出される廃棄物にも洗剤などの日常消耗品にも、それら命はみんなこちらが対話する準備ができるまで待ってくれています。 心の目や耳を開いて、全ての生命体と仲良く手を繋ぐことをまずは決断しご自身の中で宣言してみませんか?仲間と意識した途端、実は森羅万象は見た目を変化しているだけで全ては同じ根源であることを知り、どのように自らや暮らしをシフトしていくかは自然に導かれてゆくことでしょう。 * エコロジスト憧れの地といわれるマレーニの育ての親、ジル・ジョーダンさんの通訳として来日されていた由香里さんと沖縄でご縁ができ、お腹の赤ちゃん共々来日された折に名古屋で再会。9月27日家族みんなに迎えられたファビアン君は元気イッパイだそうです。 ≫≫ゆかりさんの出産レポート
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| “村仕事”づくりが日本を救う | |||||
人々の関心が高まりながら,なかなか有効な処方箋を見つけられないでいるのが教育問題だと思います。高校在職中,私は事の深刻さを肌で感じてきました。又3年ほど前、文明法則史学の研究から「日本も含め,アジア800年(22~29世紀)の運命が2020年に決まる」ことに気づきました。それは「これなら将来は安心,という教育の仕組みが2020年に機能していれば,日本そしてアジアの800年は安泰。さもなくば…」ということを意味します。問題が多岐に渡る中、最重要課題は「子ども達をとりまくコミュニティーの再生」ではなかろうかと考え、集団創造化セミナーを受講し,地元の小学校区で実践を重ねつつ,持論を上司に訴え続けた結果,今春洞戸中学校という山村の中学校へ転勤になりました。 着任から3ヶ月半,最も感心したのは中学生の頭・心・体が思いのほか柔軟なことでした。半面,熱心な指導にもかかわらず,伸び切れていない実態も見えはじめ,それは「大人と過ごし,大人の背を見て育つ機会」という必須ビタミンの欠乏症だということが掴め、中学生に“村仕事”を十分に経験させる必要性を痛感しました。生徒に願う姿は皆同じだったようで,校内では早速「村人と一緒に生徒を育てていく仕組みはできないか」という動きが起こりました。ひとたび動き出せば過疎地は速いです。生徒も職員も少人数だから機動性は高い。人口が少ない村だから互いに顔と名前がよく一致し,地域の絆がそれなりに残っている。…過去のマイナスがすべてプラスになるのが痛快です。 「過疎地発・教育再生」…全国の過疎地の中学校区にコーディネーターを投入し,学校と地域をつなぎ,人々の思いと知恵を結集して地域の持ち味を活かした“村仕事”を創りあげる。「教育が機能するとはこういうことか!」という実例を同時多発させ,その後,徐々に都市部へと波及させる…私の中でそういったイメージが固まってきました。 そんな時代を拓く仕事に本格的に携わっていけたらと願う今日この頃です。 |
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| 誰でもどうぞ「紅茶の時間」へ | |||||
週一回、自宅を開放して、誰でもどうぞ、というオープンハウスを開いています。 ひとりぼっちで子育てするのが不安で、仲間と出逢いたくて、娘が11ヶ月の時にこの「紅茶の時間」を始めたのです。それから20年。不思議なことに、誰も来なかった、という日がありません。いつも同じ顔ぶれ、ということもありません。 長続きのコツは?とよく聞かれます。無理に続けよう、という気がないのと、毎週の「ふつうの紅茶」と、1,2ヶ月に一度、ゲストのお話を聴く「とくべつ紅茶」の2本立てでしてきたからかな、と思います。ふつう紅茶だけなら、単なるおしゃべりの場で終っていたろうし、とくべつだけなら、出逢うことが目的の場になってしまっていたかもわかりません。 紅茶が始まって3年目に起きたチェルノブイリの事故。当時の仲間たちは私も含めてみんな、おさなごのお母さんたちでした。何も知らないところから、とくべつ紅茶で勉強会や原発の映画会。知ったことをまわりに伝えてゆこうと、ミニコミ「いのちの未来に原発はいらない通信」、略して「いのみら」の発刊。針と糸でも原発にNOって言えるよ、と、いのみらの付録に型紙をつけたかざぐるまフレンドシップキルトは、最終的に1万人以上の人が参加して、各地でそれぞれのかざぐるまキルトが作られるきっかけになりました。 今は笑い話だけど、15,6年前は、原発に反対するのは過激な人たち、というイメージが強かったのです。でもそこをともにくぐりぬけた仲間たちが、私には誇らしい。原発を知ったことは、一人一人の日々の暮らし方を少しずつだけども、確実に変えていきました。電気や石油、ごみのこと、大切ないのち、食のこと、そして速さや効率、量を競うことのおかしさ、いろんな気づき。 そんな時代を経て、近ごろは水曜の午後開いている、あんまりはやっていない、お金のいらない喫茶店みたいなところ、と説明しています。はやらないのが、実は味噌。少人数だから語れる胸のうち、安心して見せられる自分の弱さ。「紅茶って、元気のない時にも行ける場所なの、そこがうれしい」とよく言われますが、そんなふうに場が“成長“したことがうれしい。何より私自身、身の丈でいられて以前よりずっと楽。紅茶という出逢いの学校で一番育てられて得しているのは、間違いなくこの私、と思っています。 |
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昨年べてらーず市場でやっとお目にかかれました。 それをヒントに仲間が手作り品を持ち寄る 「紅茶SHOPPE」を自宅で開催されました。 いろんなつながりが広がってとても嬉しいです。 |
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| 私たちの町には美術館がありません。 美しい砂浜が美術館です。 |
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四国の西南部、四万十川の河口近くにある大方町。ここに「砂浜美術館」があります。といっても、美術館と名のつく建物は見当たりません。
ものの見方を変えると、新しい発想が生まれてきます。頭の中で砂浜を美術館にするだけで、今まで何気なく見過ごしてきたあたりまえの風景や自然が、かけがえのないものに見えてくるのです。 私は学生時代に川崎市から大方町に単身移住しました。クジラの研究をするために、ホエールウォッチングが盛んなこの町を訪れ、気に入ってしまったのです。そこで砂浜美術館と出会い、足かけ10年、運営に携わってきました。砂浜美術館の発想は、人が心豊かに、気持ちよく生きていくために大切なことを、たくさん教えてくれました。 想像力が生み出す美術館は、場所を問わず、誰もが日々の暮らしを楽しむためのツールになると思います。名古屋で暮らし始めた今も、いつも頭の中にマイ美術館を持ち続けていたいと思っています。 さて、ふだんは自然のままの砂浜美術館ですが、ときどき企画展を開催します。中でも5月の「Tシャツアート展」は、今年16回目を迎えるメインイベント。全国から募集したイラストや写真を、オーガニックコットンのTシャツにプリントし、砂浜に洗濯物を干すように展示するもので、毎回1000枚を越える作品が寄せられます。ひらひらと展示された後のTシャツは、潮の香りとともに応募された方に届けられます。現在、作品を募集中ですので、ぜひご参加ください。 |
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| 受け入れることによって受け入られ、 救うことによって救われる |
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| 人間はこれまで考えられてきたように、個としての性質を持っているだけではありません。コミュニティのベースとしての性質を併せもっているのです。これを卵に例えると、個としての性質が黄身、コミュニティのベースとしての性質が白身で表されます。一方は自己中心的で機能的、他方は場的で情緒的で、互いに矛盾していますが、この矛盾があるために人間は自分が住んでいる世界を発展させることができますし、場を通じて感情の共鳴が起き他者と心がつながるのです。 これまでの量産型資本主義経済の市場は新幹線に例えられ、黄身にアッピールする価値―便利な機能や流行を狙って商品を開発し、流通させてきました。それは使わなくても商品が持っている意味が分かるのでテレビのコマーシャルで商品の魅力を訴えることができます。これまでは“生きる”ということと“使う”ということが分けられ、便利さだけを目指した商品づくりがなされてきましたが、私たちが考えようとしているのは、白身に訴える「場的商品」で、“生きる”ということと“使う”ということを結び付けるものですから、生活の場で使われることで良さがじわじわと分かってくるものです。その価値の本質は商品の情緒性や身体に訴えかけてくることにあります。この種の商品は「受け入れることによって受け入れられ、救うことによって救われる」という生命の原理に基づいて使われるものですから、ほどほどの不便さを受け入れなければ、この魅力に触れることはできません。商品のはたらきを人間の側が少し補ってやると、今度は商品の方から、例えば生活の場における美の発見であったり、幸福感であったりといったものを人間に返してくれるのです。 生活の場における経験を通じて始めてその魅力を知ることができ、人から人へのコミュニケーションによって伝えられる「場的商品」を開発し、広めていくことが、この地球の上で限られた資源を使って幸せに生きていくために大切なことです。そのために必要なのが、独立性と多様性を許容する多数のコミュニティ(ローカル駅)の自主的な集まりがつくる「ローカル線型の市場」です。さまざまな出会いが起こるローカル線こそが21世紀社会に生きる世代への正の遺産なのです。 |
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| *互いの違いを認め共に生きる。そんな社会を作るのに日本の持つ「場」の思想が現代の危機を乗り越える原動力になる、と生命システム科学の発想から提唱される清水先生の著書やお話しにとても勇気づけられています。 |
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| お互いさまの経済を! | |||||
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| なぜ経済不況から脱出できないのでしょうか?それはどうも、このままの経済では、人間は幸せになれない、それ以上に、人類のいのちが長続きしないということをみんながどこかで感じているからではないでしょうか。 だから経済を回復するエネルギー(希望)が出てこないんだと思います。 競争社会の中で人は管理され、落ちこぼれ、心と体が閉ざされていくばかりです。こんな経済から、新しい経済へ、経済観とその実体を変えていかなければならないのではないでしょうか。 そこで、私がおススメしたいのは、「お互いさまの経済」です。勝ち負けや一人占めや自己利益第一の経済ではなく、どちらも良くなる、まわりも良くなる、みんなの利益につながる経済です。 札幌市白石区の商人街(商店街ではなく)でいま面白いことが起こっています。商店街の有志(商人街)と障害者作業所の人たちと、住民、行政がいっしょになって勉強会や活動を続けてきて、街の中に空店舗を活かした「まちづくりハウス」が二つできました。 その中から商店街の花いっぱい運動が広がっています。障害者がダンボールを組み立て、そのダンボールを使って住民が生ゴミを堆肥にして、その堆肥で商店街に花壇を広げているのです。まちづくりハウスの店番は、障害者の人たちをメインにまちの人たちが変わり番でつとめています。 そんな中からまたひとつ空店舗に作業所のお店ができることになりました。行政の人をいっしょになってボランティアネットワークをつくる動きも進んでいます。 全国各地のまちづくりや企業活動を見ていて、このようなみんなで助け合い、分かち合うような場にエネルギーを感じます。 「お互いさまの経済」が広がっていくと、日本が元気になる・・…そう感ずるこの頃です。 |
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| * ある時は映画のプロデューサー、ある時はまちづくりコーディネーター、経営指南に、掛け軸作家、手づくり選挙対策本部長etc.人はこんなにも多様に生きられるものかと感嘆するばかりです。が、何より常に支援者として人を励まし、一歩踏み出す勇気を与えて下さるお助けマンです。 |
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| 音と農に生きる | |||||
人様から度々「何をなさっておられる方なのですか?」と聞かれます。そんなとき大抵は「音と農に生きています。」と応えます。すると「エッ!何ですか?」と聞き返されることがあります。そこからは、サービス精神旺盛な天波節が、それこそ時間が許される限り唸られる訳です。それは、まるで阿蘇外輪山が噴火したかの如く「リズミック」で、それでいて、滔々と水を蓄える琵琶湖の様に「メロディック」に、そして、瑞穂の国の気高さと包容力を持つ富士山の様に「ハーモニック」な言葉が次々と唇からこぼれます・・・。 わけ解んないでしょ?自分でも良く解っていないのが実情で、人生を魂の感じるままに彷徨う「未熟者(ミュージック者)」なんて、シャイな言い廻しをする時もあります。 消費者で、流通者であり、生産者でもある、未熟者の農民シンガーだからこそ、15年もかかって有機農業(どれみ村では“友氣農行”と表現します)の世界に、遅れ馳せながら、やっと見つけることのできた「心」があります。日本一の『美味しい野菜』を作る為に、無農薬・無化学肥料で露地栽培を共通意志として、仲間と協力し合いながら努力して来ました。しかし、まだ低い志(こころざし)だった事を、今回の梅雨に身を以って諭されたのです。 「ほとんど溶けて流れていたわ!」の声を聞く.こんな時いつも空しさと悔しさに、ちょっとだけ天を恨んだりしていましたが、襟から袖から怒涛の如く流れ込んでくる雨の日、その中で収穫した泥だらけの野菜と目が合った気がしたのです。その時ボクの口から飛び出した言葉は「どうか元気で着いておくれ」でした。一つずつ山水で洗いタオルで拭き、新聞紙に包み箱詰めして出荷する…もちろん今までもそういう思いはありましたが、野菜に向かって祈ったことは初めてだったのです。 「ごめんネ!人間中心の考え方ばかりしていて、これからは『美味しい野菜』の上に『元気に香る』を付けて、キミと一緒に互いの成長を見つめ合ってゆきます。どんな時代が訪れても負けない『元気』を必ず見つけてゆきます。いのちは全て水のかけら、それぞれが輝き虹になる。もうすぐ雨も上がるさ!」 |
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| * 天波さんは元ロックミュージシャン。葦北の地で有機野菜の宅配の仕事をしながら音楽活動もされています。作詞・作曲された「ぱっぱらパパ」が昨年NHKみんなの歌で流れました。 |
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| 出会いは私たちを待っていてくれる | |||||
半月を少しすぎたお月さまが空にかかっています。きっと明日はいいお天気。お星様がこんなにもたくさん空に輝いているのですもの。夜空をみあげていると、私もこの美しい宇宙の中に、今、確かに足跡を残しながら、存在しているのだなあと思うのです。 そう思いながらも、私はどうして今、ここにいられるのだろう、どうして、生まれてきたのだろうと、そんなことまで考えてしまうのです。 私は養護学校の教員をしています。学校でたくさんの子ども達と出会うことができました。子ども達はいつも私の心を揺さぶり続けてくれるし、そして、いろいろなことを考えさえさせてくれました。大好きだという気持ちの大切さ、そして、生きることの素敵さを教えてくれ続けています。 生きているとあたりまえだけど、子ども達だけでなく、たくさんの方と出会います。 私はいつも出会いというものの不思議を思うのです。出会ったそれぞれの人に、もし出会えなかったら、私は今、きっと違う私でいる、出会いはいつも、何かを気づかせてくれるし、何かを感じさせてくれる・・・そして私を変えてくれると思うのです。 さまざまな人が、いろいろな状況で生まれ、そしていろいろな考えを持って生きている・・大きな宇宙の中で、ずっと続いてきた、時間の流れの中で、人と人は出会い、学び、教え会って生きてきて、それが、また次の時代へ続いていく・・・。まるで出会いというものは、そこで出会うと決まっていたように、私たちを待っていてくれるのだとも感じています。 季節はめぐり、もうすぐ夏がやってきます。季節というものは、まるで人生のようだと思うことがあります。やさしい花が咲く春のように、楽しい夏のように、そして、少しさびしい気持ちになる秋のように、そしてきらきら光る雪が降る冬のように・・・さまざまな出会いを通していろいろなことをこれからも感じながら、生きていきたいのです。 * 山元先生は子どもたちの応援団長です。原田大助君との共著「さびしいときは心の風です」や「ゆうき君の海」他沢山の本で子ども達の豊かな感情や哀しみを伝えておられます。笹田雪絵さんの「幸せ気分」「お日様気分」も山元先生とのご縁で生まれました。 |
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| 自分の中の自然を研ぎ澄まし信じること | |||||
2月20日午前7時25分満潮の時間に合わせて大きな波がやってきて、羊膜に包まれたままこの世に顔を出す。次の波に合わせて自らの力で体を回転させ、顔に掛かったベールを脱ぎ、羊水と共にスルリとすべり出てきた。3歳7ヶ月の娘が心配そうに見守る中、夫であるとらさんが受け止めた。「男だ」。羊水を吐き出す音に続いて元氣に産声を上げた。家族だけで迎えた次男の誕生の瞬間である。臍の緒が付いたまま胸元に抱き寄せて、後産が出きるまでそのまま幸せなひとときを過ごす。 36歳で初産。最初で最後、心残りの無いように自分の力で生みたかった。自宅出産について調べるうちに子供は自身の力で生まれてくると言うことがわかった。そして4年間で3回もの自宅出産となった。 月のものが満月と合うようになって1年目に初めての妊娠、自分の中の自然を実感する。それからは体の声を聞き、内なる力を信じることが当たり前となった。おかげで元氣!ツワリも無し、100%母乳でアトピーも無し、貧血気味でも食べたいと思うものを食べていたら貧血対策食品だった。 赤ちゃんは産湯を使わなくても全くきれい。子供達も、普段は見向きもしない梅干しを調子が悪いときにはぱくぱく食べたり、免疫力が高いのか水疱瘡やお多福風邪に掛かっても症状がいやに軽い。歳が近いのに下の子が産まれてもやきもちを焼いて困らせたりすることも全くない。自分より小さい者をかわいいと思う気持ちはごく自然な感情なのだろう。 今、当たり前のことがとても大切なのではないでしょうか。 普段からなるべく自然に近い暮らしをしようと、天然水を山からくみ出し、山菜やキノコをとるようにしている。味噌・梅干し・漬け物・パン・お菓子は手作りを心がけ、我が家の味を楽しみながら暮らしている。東京の都心にいるのだが、訪ねてくる友人達は「田舎の家に来たみたいだ!」と笑う。 自然に、仕事もそんな暮らしを紹介するような形になり、無農薬無添加の食材を取り扱い、手作りの会や自然体験のワークショップを企画している。皆さんの内なる自然を取り戻すお手伝いが出来たらと思っている。 *オフィス七菜さんは無農薬野菜やお水の宅配と一緒に松の多用途洗剤を 宅配されています。都会でも電気を出来るだけ使わない暮しをと、火鉢で暖を取られているそうです。 |
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| ウラジオストックはシベリア鉄道の終着駅 |
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旅は人生、人生は旅。多くの出会いは心を豊かにします。 こんにちは。旅の音楽家丸山祐一郎です。 一弦の楽器Berimbau(ビリンバウ)に出会い早いもので17年。気がつけば40種類の楽器の仲間達と全国を回る旅の日々。毎日発見!毎日感動! 今回は2002年9月7日、初めてのロシアの旅をみなさんに紹介したいと思います。 ●ロシアの旅は北の国から 2002年9月7日。富山、伏木港から船が出る.初めてのロシアの旅立ち・・・ほんの30分前までは日本だったはずなのに、船の中はいきなりロシア。アナウンスのロシア語が飛び交い、アンティークな船室、丸窓から見える海面、なんだか『海の上のピアニスト』の映画のワンシーンのようだ・・・船室を出、階段を登るとラウンジでは数人のロシアの人たちがテレビを観ていた。ロシアの放送だ。「あっ、そうだ。今日は『北の国から』の最終回・・・」20年続いたテレビ番組、『北の国から』が終わる・・・五郎さんはどうなる?じゅん君はホタルは・・・はじめてのロシア、どんな旅になり、どんな出会いがあるのだろう?目を閉じると、そこは、北の国・・・ ●ウラジオストック一のJAZZ LIVEハウス ![]() 9月11日。今日はウラジオストック一のLIVEハウスでのショー。夜11時半スタート。「えっ、こんなに遅くスタート?」なんのことはない、コーディネイトしてくれているドルダーさんたちが、チラシの時間を間違えただけ・・・ステージの横の楽屋でハルちゃんと出番を待つ。ハルちゃんは少し緊張気味・・・まあ無理もない、目の前には初めての大勢のロシアの人たち・・・自分のいつもしていることしかできないョ!それを精一杯するしかない。 ブザーが鳴り、ショーが始まった.ギター“イパネマの娘”から始まり、いつものように自然を語り、水の大切さを語る・・・それを全部ターニャというかわいい女性が通訳・・・客席は皆うなずき、少しずつLIVEハウスが和んでゆく・・・風、雨の楽器を渡し、だんだん会場が森になっていく・・・かえるが鳴き、鳥がさえずり、水カンリンバの歌をハルちゃんが歌うころは、もう絶好調!客席から数人の男性がステージに上がり、僕たちの演奏に加わる・・・後から聞いたのだが、この中の一人はロシアでは誰もが知っている、すごい有名な歌手マクナヴィッチさんであった。なんと,この歌手にタイコをたたかせ、ハルちゃんは水カンリンバの歌を歌ったのだ・・・コンキンキンココ ウキンキキンコン・・・いつのまにかLIVEハウスの中は、みな家族。ロシアの日本も同じ!Berimbauを弾き、最後は、イチャリバ・チョーディと叫んだ!!(沖縄に古くからある方言。出会った人達は皆兄弟の意)今夜は最高!! ●マキノのミラクル 9月15日。今日はウラジオストック日本庭園でのフェスティバル。そもそもこのロシアの旅は、フェスティバルの花と音のハパフォーマンスのために呼ばれ、フラワーアレンジメントコーディネーター、富山のマキノさんの口添えで実現している。彼女はパフォーマンスもし、きつねの面を着け踊るパフォーマンスは必見!僕は別名“きつねのコンちゃん”と呼んでいる.ロシアに日本庭園?と思う人もいるかと思うが、富山とウラジオスットクは友好都市。富山の庭師が去年、ウラジオスットク大学の敷地内に庭を造った。その1年にあたり、また大学のフェスティバルと重ねて行われるものだ。大学の日本語を勉強している学生たち10人ぐらいといっしょに、日本庭園の中を飾り付けてゆく・・・みるみるうちに何もなかった日本庭園が賑やかになり、お祭りムードになる。そんな中、コンちゃんことマキノが一言、言った・・・「この枯れ山水の庭に、清めの水は撒けないかしら・・・」その一言が叶うことになる・・・素敵なミラクルによって・・・ロシアのウラジオストックの水は貴重だ!!日本のように水道の蛇口をひねっても、いっぱい水が出ない.シャワーを浴びるのも、歯を磨き口をゆすぐことさえ大変・・・庭の生け花の水もペットボトルの水を使っていた。準備も整い、フェスティバルの30分前に雨が降り出した.ロシアに来て1週間、全く雨は降っていなかったのに、突然の雨!!観客の人たちの中にも傘が開きはじめた・・・あわてて楽器をビニール袋で覆い、マキノの方を見るとニコニコ・・・だいじょうぶ、だいじょうぶとうなずいている・・・このままフェスティバル中止かと思ったとき、雨が止んだ。 開演スピーチの前にはすっかり雨が上がり、セレモニーはスタート。 枯れ山水の庭の石は雨でしっとり濡れ、見事清めの水が撒かれた!マキノは後でこう言った。私たちはこれで来ているのヨッ!いろんな人たちの想いがあるの。成功するに決まっているじゃない・・・そうだネッ、みんなの想いが天の神様に届き、その天の神様がこう言ったのだろう・・・「私にもちょっと手伝わせてヨッ!!」 フェスティバル大成功!!スパシーバ 天の神様!! ●カチューシャとコキリコ ![]() マキノのミラクルで大成功の翌日、一夜明け、今日は快晴!!朝10時より、ロシアの子どもたち30人と水カンリンバをつくり合奏。果たしてうまくいくのか?日本から持ち込んだ空き缶150缶。昨日と同じく学生たちに手伝ってもらい、みんなで子どもたちに水カンリンバワークショップ。言葉の壁もあったのだが、子どもはどこも同じ.子どもは物真似の天才。2時間もしたら30人全員水カンリンバを完成!さて、これからが僕の腕の見せ所・・・その子どもたちと何をイメージし、何をつくりあげるのか?いつものことだが、その場所その場所で何故それをするのか?それが大事.ここでは富山とウラジオストックの友好がテーマ・・・昨日の夜、夢を見た.その夢は、富山の民謡コキリコを子どもたちが歌い、ロシアの民謡カチューシャの歌声と一つになっている夢!!さっそく朝起きた時、すぐこれを確かめた。「ハルちゃんコキリコ歌ってヨッ」眠たい目をこすりながらコキリコを歌い出すハルちゃん・・・それにギターでカチューシャをからめると、見事なまでに一つになった。同じテンポ、同じキーで同時に歌い出すと、混声2部合唱のようにハモり、そして同じ小節数でピッタリ終わるのだ!!しばし感動・・・これはすごい発見かも?昔ロシアと日本が陸続きということが、歌でも実証される? もちろん今日のフェスティバル、この素敵な夢のお告げを元に構成していく・・・水カンリンバの子どもたちがコキリコを歌い、波音で海を表現し、海を渡り、ロシアの楽団がカチューシャを歌う・・・そのカチューシャに、もう一度子どもたちがコキリコを歌うと、2つの歌が1つになった。見事夢の中で見た1コマは現実のものとなったのだ。 ~窓のサンサはででれこでん 晴れのサンサもででれこでん~ ~リンゴの花ほころび 川面にかすみ立つ~ 同時に歌う、その歌声は、国を越え1つになり、抜けるようなさわやかな秋空の中に吸い込まれていった・・・ ●ウラジオストックはシベリア鉄道の終着駅 2日間のイベント大成功。打ち上げはウラジオストック駅の3Fのレストラン!70度のウォッカを飲み、皆陽気にしゃべっている。富山・ウラジオストック会、タナダはカリンカを声高らかにオペラのように歌っている・・・レストランの天井は高く、その教会のような高い天井に声が響き渡ると、まるでプロのオペラ歌手が歌っているように聞こえる・・・このために来た2日間のイベントからすっかり開放され、関係者全員子どもの顔になりはしゃいでいる。ふと、僕は席を離れてベランダから顔を出すと、なんと下にはウラジオストックのホームが広がっていた。今まさに列車が着いたところであった。モスクワからウラジオストックまで列車で1週間。1週間の旅をし、戻ってきたのだ・・・ガタンゴトン、ガタンゴトン時々入る列車のきしむ音・・・それは素晴らしい音楽となり僕の胸に響いた。どこかもの悲しく、深い音、目を閉じるとシベリアの荒涼とした大地が広がり、いつの間にか涙が出ていた・・・「みんなちょっと下に降りようよ!!」すぐに全員でホームに降りることになり、酔いどれのご一行がホームをフラフラ歩いてゆく・・・少し歩くとホームに機関車が展示してあった。初めてモスクワに走った機関車だそうだ。ここまで来た時、日本からいっしょに来ている食のパフォーマーナノさんが「ここで丸山さんのギターが聞きたい!」と酔っ払った口調で、子どもがダダをこねるように大声で叫んだ。いつでもどこでもギター。ギターはいつも持ち歩き、気の向いた所でいつも弾いている・・・ナノさんに言われるまでもなく、ギターを弾きたかった僕はよしとばかりケースからギターを取り出し、機関車の前に腰を降ろした・・・ハルちゃんと準備をしていると、ロシアの若い警備員が駆けつけてきた。さっそくナノさん、その警備員に向かい、酔っ払った勢いで「お前も聞け!」とばかり命令口調・・・さすがにこの迫力に負けたのか?その若い警備員も腰を降ろし、お客さんになった。さあミニコンサートの始まり・・・ 空は満天の星空。心地よい夜風が頬を伝い、ギターの音色がホームに響き渡る。イントロのテンポに入った時、なんと図ったかのごとくモスクワに向け列車が動き出した.列車のどこかさびしい深い音をやさしく包み込むように、ギターの音色がホームに広がっていった・・・ッ曲が終わり、ふと周りを見ると皆泣いていた・・・何千回弾いたのだろう?この心の川。 今日の心の川は特別。 弾いている時、心の川がこう言っていた・・・ 「ここから、また旅立ちだヨッ・・・旅を!」 終わりのない旅 新たなる旅立ち 旅はまた、ここから始まる!! ●ロシアの帽子は、笑顔の帽子 街角を歩いていると、道端で帽子売りの若いお兄さんに出会う.あのロシアの伝統的な、毛のフサフサした黒い帽子!ヒョロッと背が高く、黒いシャツを着、ジーパンの彼は、僕を見つけるとピカーの笑顔でニコッと微笑んだ・・・彼のその笑顔からはあたたかい人柄が感じられ、いかにも人がいい好青年って感じだ.さっそく、いつでもどこでもギター。ギターが街角に響く.でも彼はキョトンとしている・・・「えっ、どうして?」その訳はすぐにわかった。彼は耳が聞こえなかったのだ。彼は僕に近づいてくると、ポケットから1枚の紙を出し,その紙を指差し笑顔でこう言った.こんにちは、ありがとう、どういたしまして・・・その紙には他にも12~3個ぐらいの日本語が書かれてあった。おそらく日本人が彼に教えたのだろう・・・それにしてもいい笑顔!僕は通訳のロマン君を呼び、訳してもらい「あなたの笑顔が素敵だから帽子買うネッ」と言った.彼から帽子を受け取ると、僕はさっそく被り、彼の日本語が書かれた紙の中に、新たに“兄弟”の2文字をつけ加えた。そしてロマン君にロシア語で意味とつづりを書いてもらい、かたい握手をした。別れる時、彼はたどだどしく“きょうだい きょうだい”と何回も言い、ニコッと微笑んだ・・・季節がらまだふさわしくないロシアの帽子。この帽子が似合うロシアの冬は、どんなに寒さがキツイのだろう?ずーっと元気でいてネッ、また会おうネッ、ハラショー!! ●屋根の上のシャボン玉 ロシアの旅も今日で終わり。ドルダーさんたちのレンガ造り6Fのギャラリー兼オフィスに寝泊りしていた。僕とハルちゃんは、最後、みんなといっしょにシャボン玉と思い、6Fの屋根の上に登った。屋根の上はトタンですごく広く、上から見る景色は最高!!まるで殿様になった気分だ・・・ウラジオストック中が一望でき、目の前を真っ白なカモメが飛び、空はどこまでも青く、水平線の彼方にはいくつもの船が浮かんでいた. シャボン玉にはもってこいの風!さっそく、シャボン玉のおじさん、空林さんから預かった液と、ハエタタキを用意する。(シャボン玉を飛ばすにはハエタタキがgood!ハエタタキの中を切り抜き、周りに麻ヒモを巻く。これでOK!液をつけてハエタタキを振ると、スペシャルシャボン玉がいっぱい・・・)空林さんのシャボン玉は、昔沖縄の特攻隊の指揮官だった亡き父の平和への想いが込められたシャボン玉。シャボン玉の液も6ヶ月寝かせて作る.その貴重なシャボン玉がここぞとばかりに青空に舞い上がり、ウラジオストックの町並みに消えてゆく・・・何百メートルも先の広場では、そのシャボン玉を数人の子どもたちが追いかけ,奇声を上げ、はしゃいでいる・・・ シャボン玉 空高く 僕らの夢のせて~ ![]() 風に運ばれフワッフワーどこまで飛んでゆけ~ 戦争のない平和な世の中になってネー 空林さん見てる?シャボン玉、ロシアの空に飛んでるヨーッ ありがとう ウラジオストック!! また来るネ!! http://i-debut.org/opinion/m_disp.asp?code=2116 |
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| 木曽の間伐から考える | |||||
1994年から木曽の上流で檜の間伐を中心にしたボランティア活動を始めました。きっかけは、私の知人が制作した「あらかわ」という映画の自主上映からでした。それは荒川の上流と下流の住民が、一緒になって考えていく必要があるとの問題を投げかけた映画でした。私は93年から東南アジアでのマングローブ植林を行っており、森林の問題には深く関心がありましたので、上映会後、木曽川の上流域の人達とコンタクトを取り、「水系の民」として下流域の人達が、木曽川上流の森林の保全に関わる必要性について話しました。その熱意が理解され、間伐ツアーがスタートし、今年の10月で16回目になりました。この間伐ツアーを体験することによって、私はいろいろなことを学びました。 作業終了後、森を見た時には充実感を感じます。しかし手入れをしなければならない森が至る所にあるのを見ると、また次も頑張ろうという気持ちが強く湧く一方、このままのピッチで良いのだろうかという疑問をいつも感じます。この点について、木曽川下流域の住民だけでなく、日本の消費者に一度立ち止まって考えてほしいことがあります。最近、日本でも木に触れることの大切さが認識されるようになりましたが、いざ木工品を購買する段になると、どうしても値段から入ってしまう消費者が多いのです。その結果、日本の木工品メーカーも中国で生産し、安い価格帯の商品を提供せざるをえない状況になっています。 このままの状況で行けば、日本の伝統工芸を護ってきた漆工芸人や木地士等の職人がいなくなるのではないかと心配をしております。それは森や林に携わる人がいなくなるということでもあります。このような状況が進めば、日本の森林も悲劇的なことになる可能性が十二分にあります。 私たちは目先の生活が豊かであれば、次世代の人達の生活基盤がどうなっても構わないというのでしょうか。そのような観点から考えれば、少しぐらい高くても国内産の木製品を使う必要があることは明らかではないでしょうか。日本の消費者に日本の将来の自然を考えるグリーンコンシューマーになって欲しいと、願ってやみません。(間伐ツアーの詳細はHPをご覧ください) *某大手都市銀行で出世街道をまっしぐらだったのが疑問を抱き脱サラしてエコ・ビジネスの道を歩み始めた松長さん。オーガニック商品や木曽の木工品販売、手づくりはエコ!と手作り教室に植林、環境教育etc.大きな身体で西に東に飛び回られています。
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| せんねん村から見えたもの | |||||
| 特別養護老人ホーム せんねん村 施設長 中澤明子 |
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13年余りの思いを込めて平成13年1月に完成した特別養護老人ホームせんねん村は、ショートステイ、デイサービス、ケアハウス、ヘルパーステーションを併設した高齢者複合施設でもある。定員は145名である。 老人保健施設を平成元年に開設したが、その準備の段階で既に「特別養護老人ホームがなければ高齢者の生活を支えきれない」と感じ、「きっと、いつかは特養ホーム」と夢に見もし、実際に動きもして、その結果のご縁で、願ってもない自分の居住地である西尾市に開設することができた。 全室個室、ユニット・ケアを導入し、建物も評価されて、全てよし・・・と思えるはずだった。だが、私に見えたのは次の課題であった。ケアサービスの向上は永遠の課題として、常に取り組んでいかなければならないことではあるが、13年余りの過程を形にしたものとしては、自分でも満足できるものであると言える。 しかし、私が気づいた課題は一面ではせんねん村を否定するものである。町から離れた大規模施設は、どのように小グループに分け、個室化しても施設は施設であり、いかに雰囲気よくとも、収容施設なのである。住み慣れた町を離れて、見ず知らずの土地に移り住む。そこで共に暮らすようになる人も見ず知らずの人同士。環境の変化への順応力が低下しているのが高齢者、と分かっていながら制度によって、振り回されているのが日本の高齢者である。 住み慣れた我が家で住み続けることができないならば、せめて住み慣れた町で暮らし続けることはできないのか?民家を借りて、そこを小規模特養にする。痴呆性高齢者のグループ・ホームを特養化する。今の制度では、グループ・ホームへの訪問診療や訪問看護は認められていないが、これを何とか認めてもらえるようにできないか? 大規模施設には、「生活」はあるかもしれないが、「暮らし」はないのである。せんねん村の評価が高いのは、せんねん村が良いからではない。これまでの施設が悪すぎたのだとしか思えない。お褒めの言葉が空虚に響く昨今である。 |
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金のない奴ぁ俺んとこへ来い! |
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