| 朝日新聞文化欄より ◆ 「殺されたくない」を根拠に |
| イラク反戦に見る新しい形 |
| 鶴見俊輔(哲学者) |
京都のピース・ウオークを出発点で見送った。デモのコース全体を歩きとおすことはせず、出発点で見送るだけにとどめている。八十歳になってから、そうしている。 出発までのしばらくの問に、野外劇がくりひろげられていた。骸骨の衣装を着たアンクル・サムが広告塔としてまんなかに立って、そのまわりを赤、黒、青のタイツを着た三人がぐるぐるまわり、死の苦痛を見せて、倒れて死ぬ。 ![]() 終わりにアンクル・サムが、仮面を脱いで、私はアメリカ人です、と名のり、タイツを着た踊り手も、それぞれ、カナダ人、メキシコ人、フランス人と実名を名のった。四人とも女性で、京都にきている留学生だった。この野外劇が、行進のはじめにあるということは、これまでにない。 9・11テロ以後に始まったこのピース・ウオークの第一回で私が出発地点にきたとき、集まったのは150人。そのうち百人が女性で、五十人が男性だった。男性には、共通の性格があり、女にひっぱられる男だった。もう少し踏みこんで言うと、女にひっぱられて生きる役割をよろこんで受けいれる男たちのようだった。 このことは、38年前のベトナム戦争反対のデモ行進とはちがう性格を、今度の戦争反対デモにあたえている。 歌も、合言葉も、身ぶりもかわった。かつての戦争反対デモは、戦中の軍隊の行進の形から手が切れていない。スローガンも、軍隊式である。 私は、土岐善麿の戦後始まりの歌を思い出す。1945年8月15日の家の中の出来事を歌った一首だ。' 「あなたは勝つものとおもつてゐましたかと 老いたる妻のさびしげにいふ」 明治末から大正にかけて、啄木の友人として、戦争に反対し、朝鮮併合に反対した歌人土岐善麿は、やがて新聞人として、昭和に入ってから戦争に肩入れした演説を表舞台で国民に向かってくりかえした。そのあいだ家にあって、台所で料理をととのえていた妻は、乏しい材料から別の現状認識を保ちつづけた。思想のこのちがいを、正直に見据えて、敗戦後の歌人として一歩をふみだした土岐善麿は立派である。 敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし、夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日とおなじく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。 大正時代に反戦の言論を張った知識人は多いが、昭和の長い、15年つづく戦争の中で、誰がその立場を守り得たか? 大正から昭和へ、教授たちは、はじめは平和を説き、やがて戦争を支持した。その中の何人かの例外をもって、教授全体を代表させることはできない。日本の知識人全体の、この連続転向を問うことが必要だ。 戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求める方がいい。理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは自分の生活の中に根を持っていないからだ。 イラクでは、女性、子供、そして戦闘力のない老人が殺される。そのことは、アジアの中で大きな富と武力をもつかつての日本が、アジアに対してしたことを思わせる。これに反対する運動は、新しい形を必要とする。 世界で一番新しい文明が、最も古い文明に対して加えた攻撃である。この新しい文明は、地球上に住む他のあらゆる生物(動物や草木を合めて)に対する破壊力を備えている。米国の大統領はそのことを自覚していないが、もはや人類は地球に対する謝罪として自分たちの終わりを考えるべき時に来ている。 |
| 鶴見俊輔(哲学者)朝日新聞夕刊 |
